今村仁司『アルチュセール』

今村仁司の名前を初めて知ったのは、浅田彰著『逃走論~スキゾ・キッズの冒険』に収録された「<対話>ドゥルーズ=ガタリを読む」によってであった。以来、今村仁司の仕事を、チェックするようになった。
今村仁司の仕事は、大きく分けて三つの範疇に分けることができる。
(1)マルクスおよびアルチュセール研究者としての著作
『アルチュセール』(本書)、『アルチュセールの思想』(講談社学術文庫)、『マルクス入門』(ちくま新書)、アルチュセール他著『資本論を読む』翻訳(ちくま学芸文庫)など。
(2)現代思想の紹介者としての著作
『現代思想の系譜学』、ジャン・ボードリヤール著『象徴交換と死』共訳(ちくま学芸文庫)、『現代思想の基礎理論』、『現代思想の展開』(講談社学術文庫)、『格闘する現代思想~トランスモダンへの試み』、『現代思想のキイ・ワード』、『現代思想を読む事典』編著(講談社現代新書)、ヴァルター・ベンヤミン著『パサージュ論』共訳(岩波現代文庫)など。
(3)オリジナルの思想の展開
『排除の構造~力の一般経済序説』(ちくま学芸文庫)、『作ると考える~受容的理性に向けて』(講談社現代新書)、『貨幣とは何だろうか』、『群集~モンスターの誕生』(ちくま新書)など。また、近年、清沢満之研究にも領域を広げ、『現代語訳清沢満之語録』(岩波現代文庫)などの著作を発表している。
これらの著作のなかでも、『アルチュセール』(清水書院)は、その研究の出発点にあたる著作であり、初心者向けに平易に書かれているにも関わらず、その後の研究の萌芽を含んでいるように思われる。今村仁司は、今までに様々な思想家を語ってきたが、アルチュセールを語るときは、とりわけ熱いものが感じられる。
本書はアルチュセールの全体像がわかるように書かれているが、とりわけアルチュセールが、初期マルクス(疎外論を基調にし、人間中心主義的な思想を表明した『経済学・哲学草稿』の頃のマルクス)と、後期マルクス(人間存在を社会的諸関係の総体として理解し、「構造」的な視点を導入した『ドイツ・イデオロギー』以降のマルクス)の間に、認識論的切断があるという見解を示した箇所が眼を引く。おそらく、今村仁司がアルチュセールを初めて読んで、他のマルクス研究と違う画期性を見たのは、この部分ではないか、と思われる。
その後、今村仁司は、構造主義・記号論・ポスト構造主義の解説者として膨大な著作を発表するが、その際、アルチュセールの見出した認識論的切断の考えが、構造主義とそれ以前の思想の差異を考える際に応用されることになる。
また、この本の末尾には「イデオロギー論」という章があり、アルチュセールの、『イデオロギーと国家のイデオロギー装置』(邦題「国家とイデオロギー」)の思想の分析が為されている。
(アルチュセールの『イデオロギーと国家のイデオロギー装置(AIE)』は、その後、それを章として含むより大きな著作『再生産について』として翻訳が刊行された。)今村仁司は、ここにアルチュセール理論の可能性を見出している。
その後、今村仁司は、フーコーの権力装置や、ドゥルーズ=ガタリの国家装置など、アルチュセールのAIE論に通じる研究の紹介をしてゆく。また、デリダの脱構築についても、アルチュセールの重層的決定の考え方の延長線上に思考するのである。
ところで、私は専門家ではないので、もっぱらアルチュセールらの現代思想を、現実問題に適用する方に関心が向いている。例えば、「国家のイデオロギー装置」という考え方ほど、靖国神社の本質を考えるのにふさわしいものはないように思われる。皇国史観があり、それによってマインド・コントロールされて、殺人マシーンに変えられる青年がおり、ジェノサイドにエクスタシーを感じるようにプログラミングされ、戦死は不幸の際たるものであるにも関わらず、家族も本人も誉れの死として悦ぶ。これはなぜかといえば、「国家のイデオロギー装置」がうまく機能していたからであり、そのなかで靖国神社は重要な役割を果たしていたと考える。このような見方が何をもたらすのかといえば、真の敵が何かということが、見えるようになるということである。殺人マシーンに変えられてしまった悲惨な人間の立場からすれば、精神改造を行った靖国神社は、どう映るであろうか。

初出 mixiレビュー 2006年06月25日 17:43

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