in企画×上埜すみれ一人芝居『流れない、星』

in企画×上埜すみれ一人芝居『流れない、星』の全篇をDVDを見た。Twitterでは、文字足らずになるので、ここに記憶を残しておく事にする。

参考までに、ダイジェスト映像を見つけたので、貼っておくことにする。『流れない、星』は、白い密室が舞台である。白い密室は壁すらも封鎖され、外界からの情報は遮断されている。この中で、上埜すみれさんが一人芝居を行うわけだが、白い壁はスクリーンでもあり、そこに映像作品([映像出演]金谷優里、亀尾建史、藍屋奈々子、[映像]小野とうか、[音楽]西平せれな)が照射される。例えば、宇宙の星々の映像が照射されることで、閉鎖空間と思われた世界が、途端に宇宙に向けて開かれる。つまり、『流れない、星』は、演劇と映画をかけ合わせた作品なのである。映像は、白い壁だけでなく、上埜さんの演ずる身体にも映し出されるから、情報量の高い画像になる。(ゴダール『映画史』で、複数の映画作品を引用し、重ねながら映し出すことによって、高度情報映像をつくりだしているように。)

『流れない、星』の冒頭では、閉鎖空間での状況劇(例えば、複数人数による芝居になるが、サルトルの「出口なし」は閉鎖空間での劇である。)になるかと思われた。上埜さん演ずる女性は、記憶が定かでないのか、このような状況になった経緯を理解しておらず、部屋の状況を確かめ、閉鎖空間であると知ると、自身の孤独な状況を、宇宙空間に投げ出された唯一の生存者ではないかと想像をする。しかも、食べ物や水は、わずかしかない。しかし、状況が一変するのは、舞台に宇宙空間と星の映像が映し出される瞬間である。閉じられた空間が、宇宙全体に広がり、この劇が閉鎖空間の状況劇ではなく、詩的言語と映像によって世界を創出することを志向していることがわかるようになる。

外部から照射される映像作品によって、『流れない、星』は更なる変容を遂げていく。詩的言語と映像による宇宙像の提示は、まだ序盤に過ぎなかった。さらなるナレーションと映像によって、『流れない、星』がこの舞台だけではなく、これは映像作品として撮られた結果であり、上埜さんはその作品の中にいて、制作者側というメタ構造があるのではないか、と思わせる展開を遂げる。そうして、宇宙の話は、映像作品の話に移り、さらに作品の中に閉じ込められた存在という観点から、生と死の空間にまでも指向性が向けられるようになる。

こうして『流れない、星』が、最終的に行く着くのは、演ずるとは何か、映像作品を制作するとは何か、という問題である。その問題系を巡っていく旅を経験すると、いつしか本物の演劇人になったり、本物の映像作家になる。そのことは事実のようだ。

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