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円相とブラックホールとインターステラー

先日、世界初のブラックホールの画像が公開された。

映画「インターステラー」で表現されたガルガンチュアとそっくりだったことに驚く。
やはりブラックホールは真っ黒の円状の形をしていて、輪郭を光が取り巻いていた。その重力は計り知れず、光をも曲げて吸収してしまうらしい。
ブラックホールの背後から進む光は、ブラックホールに吸い込まれるように曲がり、あのような光の輪郭を残すと、以前デジハリで開催された相対性理論の講義を聴きに行った時に物理学者の方が言っていたっけ。
なんと美しく荘厳なエネルギー。

ガルガンチュアの5次元空間で「彼ら」に3次元空間を構築してもらったクーパーが、過去とつながる時空間で娘のマーフを見つける。マーフとコンタクトを取って過去を変えようと信号を送るシーンは、人が過去にとらわれ後悔にあがく心そのものを見せられているようだった。

しかしクーパーはやがて気がつく。
「彼ら」は過去を変えるために自分をここに呼んだのではないことを。
「彼ら」はクーパーを宇宙に、そしてガルガンチュアに誘った理由は、今ここから未来を変えるため。
クーパーは今に気がつき行動を起こし、そして「彼ら」の正体にも気がつく。マーフも本棚の向こうの幽霊の正体に気がつく。
父と娘のお互いの「今」が繋がり、新たな未来の「因」が生まれる感動のシーンは僕にも大きな気づきを与えてくれた。
常に今を生きるべしという禅語の「而今」が心に浮かんだ。
過去は過ぎ去ったと書き、未来は未だ来ずと書き、あるのはただ今この瞬間だけ。

僕もマーフのように子供の頃に誰かに見つめられている気がしたことが度々ある。
それはまるでマーフが本棚から感じた感覚と同じだ。
幽霊のようであり、しかし恐怖ではない温もりを感じる眼差し。
幼い頃はその正体を知りたいと願いながら星を見ていたし、僕も「彼ら」の存在を意識し、心で対話しながら今日まで生きてきたと言える。
だからこそ、クーパーが最後に気がついた「彼ら」の正体に、僕も強烈なメッセージを得ることができた気がして、僕は他の映画にはないインターステラーの異質な魅力に心惹かれた。

今回のブラックホールの発見画像が、まさに映画の世界が遥か彼方に実在していることを証明したと感じた時、ふと僕の心には禅の「円相画」が浮かんだ。

ブラックホールは禅の円相と同じ感じだと思った。
始まりもなく、終わりもない。
その円の中にはたぶん全てがあって、何もない。
その答えが人の命の数だけあるとしたら、問答をすることすらもきっと意味がない。

例えばクーパーがブラックホールに入って気がついたように、その中に入らなければ真実は解らない。
それはまるで死に至るまで死後の世界を知れないのと同じように...
それはまるで未だ来ぬ明日を知れないことと同じように...

今の僕にわかっているのは、ブラックホールも円相画も、わけがわからないのに心惹かれるという事くらいだ。

ブラックホール。その荘厳なエネルギーと切なさ、そしてなぜか抱いてしまう親近感、それら全ての理由は今は解らないけれど、いつかはっきり解る時が来るようなワクワクした高ぶりがある。
それはまるで円相画を見つめている心と同じ感覚。


今朝座禅を組んでいてそんなことを考えていた。

思考を離れようとすぐに呼吸に戻っても、なんども頭に浮かぶブラックホールとインターステラーと円相画。
消しても流しても浮かぶ思考に辟易して、このエンドレスの思考執着から逃れるために、今これを書いている。

そして僕は今、本当は誰もがブラックホールの先を知っていたのかもしれない。などというまた途方もない思考に捕まってしまった。
死んでしまった後、誰もが皆その答えを再び思い出すのだと、僕の心の中で「彼ら」が言っている。


墨を擦り、和紙に筆を落とし、円を描くとき、一つとして同じ円は描けない。
今この瞬間に描いた円は、まるで今の自分の心の状態を写す鏡のようで、その濁りや淀みに苦笑いをすることもあれば、自分も知らなかったような、自分の奥に潜む美しい今この瞬間の光を垣間見るような円が描けることもある。
そんな時は、少しドキッとして、決まって小さな自己満足という名の幸せを感じる。
不動の心に至るにはまだまだ修行が足りないと思えば、またその気づきさえも未熟な自分の伸びしろを自覚する縁となり、まさに描いた円相の世界に溶けていく...。

「円相」

僕にとってそれはブラックホールであり
自分の心であり
無我であり
唯一無二の今ここの世界のようだ

そうして今日も僕は絵を描く
未だ何も始まってないような気がして
今ここだけに居たいと願いながら
目覚めているかと問いながら
ワクワクしながら
いつまでも


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