走ることについて。1

走りと僕の関係は、昔から親密だった訳ではない。ずっとサッカー部にはいたものの、僕のポジションはゴールキーパーだったので、長い距離を走ることとは全く無縁だった。練習したことといえば400mダッシュなどで、これはゴール前で生じるギリギリの攻防はだいたい400mダッシュするくらいの時間があれば終わるので、その間最高のパフォーマンスであり続けるための訓練だった。

そのサッカーも高校までできっぱりとやめ、読書と音楽が生活の大半を占めるようになっていた。お金が無かったので、高田馬場の古本屋街に行き、大量に岩波文庫を買い込んでは帰ってきて読むばかりの生活。その合間にドラムの練習をしていた。

体育会系の人には分かってもらえると思うのだが、普段運動をしてきた人が運動のない生活をするようになると多大なストレスにさらされるようになる。身体が少しずつ腐っていくような気がするのだ。自分が無理やり餌を与えられ肥え太らされる家畜であるかのような気分にもなってくる。元々アスリートであった自分の身体に対してとんでもない不義を働いているような感じもするし、身体の状態に自身がないと、もともと苦手だった対人コミュニケーションがもっと苦手になっていく気がした。

だから走り始めるようになった。大学の寮の前を流れる川沿いの緑道を往復10km走ったとき、自分が運動を求めていたことを痛感した。身体に溜まっていたどす黒い汗が洗い流されて、その後から新しい自分が生成されるような爽快感を思い出してからは、走ることが日常生活の中に組み込まれるようになった。大学卒業をしてニートになってからも、金融機関で働くようになってからも、ずっと走り続けた。

20代後半からはレースにも出るようになった。3.8km泳ぎ、190km自転車に乗り、42.2km走るトライアスロンも走った。佐渡ヶ島一周208kmのマラソンも走った。520kmを走るレースでは人生初のリタイアも経験した。八戸から下関まで1,648kmを走った。

走ることが日常となるうちに、僕にとっての走ることの意味は、単なる健康や体型の維持以上のものになっていった。走る時間は瞑想の時間だった。苦しく長いレースを走ることは自分の虚栄心を追い払うための訓練であり、身を持って何かを学ぶ場でもあった。ただ走るという単純な行為は、僕に数百冊の書物や、大きな仕事をやりとげるのと同じくらい、ある意味においてはそれ以上の学びをもたらしてくれたと思う。

こういった学びを得るのに、才能は全く関係ない。というのも、走ることから得る学びは、人それぞれの壁と対面したり、壁を乗り越えるところから得られるものだからだ。天禀の多寡にかかわらず、人それぞれ自分の壁にぶつかる。むしろ、才能がないほうが、壁には早くぶつかることができる。

世の中の大抵の本は、才能のあるランナーが書いたものだ。僕には残念ながら何かの大会で優勝した、といった類の本は書けない。でもそういうランナーが世の中には大多数なのだから、僕みたいな人間が書くのもありなのではないか。そう思って、書いてみることにした次第だ。

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