知恵の樹

知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか (ちくま学芸文庫) 文庫 – 1997/12 ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・パレーラ著

今年23冊目。この本は結構読むのに時間がかかった。

生命とは何かという問いに正面から答えた本書は、「オートポイエーシス」という言葉をはじめて一般化させた書籍だ。著者らは、生物とは、オートポイエーシス組織、すなわち自己を産出し続ける単体のことであると考えた。この単体はそれ自身を環境から区別する膜を持っていて、それこそが生命の境界線である。

この定義によると、例えば生殖は生命の本質ではないということになる。著者らはラバ(ロバと馬の掛け合わせで、生殖能力を持たない)を例に出して、ラバが生殖能力を持たないからといってラバを生命と呼ばないことの愚かさについて言及している。

このオートポイエーシス単体は例えば細胞であるが、この細胞が凝集してさらに高次カップリングがされた生物をつくることがある。多細胞生物はまさにこのパターンで、僕たちも数多くの細胞の凝集によってつくられている。

生殖は生命の本質ではないにせよ、生殖によって生物は自らの系譜を作り上げる。どのような生物が生殖の結果生まれるかは、確率分布のようなもので、ある一定の傾向と、確率的に分布するランダム要因によって決まる。よって、時間と生殖回数を経るごとに(すなわち、試行回数が増えるごとに)より多様な生物群が生み出されていく。

そうした多様な生物たちの中で、環境に適応したものは生き残り、そうでないものは絶滅してゆく。サイコロの目を振って、あるときは1を出したら、あるときは4を出したら絶滅、といった具合にだ。生物は環境は相互に影響を与え続けながら、お互いを選択し続けている。適応と淘汰。

本書では3次のオートポイエーシスにまで言及している。それは、例えば人間同士、動物同士のやりとりといったもので、2次の構造的カップリングをしている生命どうしが相互作用をしながら、全体の種を作り上げているようなもののことだ。このような、オートポイエーシス体どうしが三次の構造的カップリングをするとき(すなわち、種としての行動を生み出すとき)、それwを社会現象と呼ぶ。

著者は人間の3次の構造的カップリング(社会現象)は、人間が有する言語によって全く他の生命とは違うものになると指摘する。第一に、言語を有するがゆえに、人間の社会現象には規範や自意識といったものが介在することになること。第二に、人間の社会現象には人間単体に内省をうながすようなものになっていることだ。

最後に著者らは愛について言及する。愛とは全く異なるものを自己の隣に置くことであり、これこそが、三次の構造的カップリングの基礎をなしていると著者らは主張する。すなわち、愛なしに社会現象は存在し得ないのであり、それゆえに愛は至高であるというわけだ。

「毎日の生活においてぼくらのかたわらにほかの人々を受入れるということ。これこそ、社会という現象の生物学的基礎だ。愛がなければ、つまり他人がぼくらのかたわらに暮らすことを受入れるのでなければ、社会的プロセスは存在せず、したがって、<人間であること>も存在しない。競争から真理の所有、さらにはイデオロギー的確信にいたる、他者を受入れることの土台を切り崩してしまうようなすべては、社会的プロセスの土台をもやがて切り崩してしまうことになる。なぜならそれは、社会的プロセスを生みだす、生物学的プロセスの土台を切り崩すからだ。誤解のないようにいっておこう。ぼくらはお説教をしているのでも、愛を説いてまわっているのでもない。ただ、生物学的にいって、愛がなければ、つまり他者の受容がなければ、社会という現象は生じないという事実をあきらかにしているだけだ。」



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