知覚をきたえる

だいぶ遅れてしまったけど、安宅和人さんの「知性の核心は知覚にある」というハーバード・ビジネス・レビューの論文を読んだ。今までこの雑誌で読んできた論文中でも白眉の一品で、相当な思考の蓄積が伝わる。そして、つい最近に石川善樹さんとの対談も掲載されていて、これも大変によかった。

詳しい内容は是非にこの論文(単品PDFを購入できる)を読んでもらうとして、個人的に知的訓練として大切だと思っていることについてメモしておきたいと思う。

知的活動というのは、外部からの情報を受け取って、それをアウトプットするまでの一連のプロセスのことだ。そして、機械があるお陰で大幅に増幅するのは、情報認知(たとえば機械がないと紫外線や赤外線は見えない)と、課題解決の方針がある程度決まったあとの論理演算作業の部分だ。

実際にニューラルネットワークを自分でつくってみたりすると分かるのだけど、現時点でのAIで出来ることって手計算→電卓と移行していったことの延長線にしかない。すなわち、課題設定が終わり、課題解決の方針もある程度決まってからAIはものすごく役に立つのだけど、課題設定や解決方針を今のところは決められない。そういったことも出来る知性を人間が生みだす未来が、いつかやってくるかもしれないけれども(個人的にはAI脅威論への賛否は汎用人工知能が作れるかどうかの見立ての違いにあるのじゃないかと思っている)。

安宅さんが喝破しているように、現代において最も価値ある人間の知的活動は、ある情報を受け取った後に、それが何であるのかの意味を理解することや、課題そのものを設定することだ。だいたいどの分野でもそうだけど、プロがプロであるのは観察力が圧倒的に優れていることに起因する。そして、そういった観察力がある人は、隣接分野において新しいものに接したときも学習スピードが非常に速い。また、前にNews Picksでのインタビューで述べたんだけど、課題設定能力は人類が人類である限り求められる能力だと僕は思っている。それはちょうど安宅さんの論文でも書かれていた「ビジョン設定型課題解決」と同じだ。

知覚を鍛えることについて、安宅さんの論文では、物事を様々な角度からずっと考えることの大切さが述べられていたけど、個人的にはそれをするための一番いい方法は何らかの事をある一定期間をかけて修めることと、生活環境を変えることだと思っていて、僕は15年くらいそれをやってきた。

僕が本業以外でこれまで結構時間をかけたことといえば、囲碁、ドラム、ランニングだけど、一生懸命に続けていると「なるほどそうか」と何らかの悟りに達するタイミングがやってくる。僕の脳みその性能が悪いからか、経験則としては一生懸命やっても5年くらいはかかるんだけど、それに到達すると目が一つ増えた気分になる。そのうちに写真と格闘技がそれに加わるのかもしれない。

同じ理由で、全く違う環境に身を置くこともいいと思っている。今はカンボジア、ミャンマー、スリランカで働いているのだけど、現地で日本人に会わずに過ごしていると、少しずつ現地の実相みたいなのが見えてきて、自分が日本で常識と思っていたことが単なるローカルルールであることが分かってくる。海外で暮らさずとも、交友範囲を自分の業界だけに絞らずに色んな人に会うことでも環境はかなり変えられる。こうやって、常識と思っていることのなかで、何がローカルルールで何がユニバーサルルールなのかの切り分けができるようになると、物事をより深く理解できるようになる。常識というメガネでものを見ていると捨象してしまうものが見えるようになるからだ。

また、課題設定能力を鍛えるために一番いいと思っているのは古典を読むこと。古典が古典であるゆえんはその課題解決のプロセスではなくて課題設定の秀逸さにある。もちろん将来は過去をたどるものではないのだけど、それぞれの時代において偉大な頭脳達が何を課題としたのかを丁寧に追いかけていけば、課題設定のセンスのようなものが身につくのではないかと思っている。

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