どこまで英語得意になるべきか問題

先日のG1カレッジで僕が参加したセッションでもさらっと「海外で仕事をする非ネイティブがどこまで英語得意になるべきか問題」が話題になった。意見は人それぞれだ。

個人的な結論は「その人の仕事内容による」ということで結論がほぼついた。プロダクトで語れるような仕事をしている人の場合、素晴らしいプロダクトをつくれば相手はこちらの拙い英語の話を一生懸命に聞いてくれるだろう。SONYやTOYOTAのプロダクトなんかまさにその典型だ。井深大の英語が得意でなくても、人々は彼の考えを知りに日本を訪れた。

一方で、金融事業には分かりやすいプロダクトが存在しないため(もちろん複雑なオプションの評価式とかはプロダクトっぽいところがあるのかもしれないけど)、トークで勝負しないといけない側面が強い。

僕の仕事は金融であることに加え、仕事の拠点は途上国であり、同僚とは英語でコミュニケーションをとる必要があり、英語話者を採用しないといけない。なので、英語でビジョンやストーリーを躍動的かつカラフルに語り、細かいニュアンスも含めて表現ができるようになりたいと思っている。仮に僕が民間セクターの世界銀行のCEOになった絵を想像してみると、英語が完璧でない絵はあまり想像がつかない。だから、僕としては目標をあまり落とさずに粛々と英語で書く・話す能力の向上に努めている。語学は上達に時間がかかるのだけど、努力に裏切られることがない分野でもある。やればやるだけ伸びる。

なお、 三島由紀夫のような豪華絢爛な英語文体を目指しているわけではなく、宮沢賢治や谷川俊太郎のような比較的平易な言葉で人の心を揺り動かす文体を目指している。話し言葉でいえば、バラク・オバマのような雄弁よりは、スティーブ・ジョブズのような簡潔な話し方を目指す。ただ、後者の文体・話体を達成するためにも相当な語彙力が必要な訳だけど(間抜けでないシンプルさは、複雑さを理解してこそ実現できると、個人的には信じている)。

その一環として最近始めたのが、英語で小説を読むこと。これまで専門書は結構な数を読んできたのだけど、小説を精読するということはしてこなかった。でも、僕がなぜ日本語でものを書くのが比較的得意なのかを考えてみると、それは結局読んだ文学作品の量にある程度依存していることに気がついた(ということに今更気付くぐらいに、僕は頭が悪い)。

有り難いことに、現代にはKindleがあり、分からない単語を辞書で引くのが非常に容易になっている。単語を辞書検索しないで読書ができることは、Kindleの最大の利点の一つなのではないかと個人的には思っている(特に外国語を勉強したい人にとっては)。

今週は初めて一冊を読み終えた。Kazuo IshiguroのThe Remains of the Day。初めて何かを達成したときの一冊というのは忘れられないものだけど、本書もそういうものになるのだろう。本書は素晴らしい作品だったのみならず、この読書を続けていくと英語表現の幅が増していくと確信することもできた。しかも何のいたずらか、主人公が「英語の勉強のため」として本作中で恋愛小説を読んでいるという不思議な入れ子構造になっていた。

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