近代家族の成立と終焉(新版)

上野千鶴子さんの論文集。学者が本気で書いたものを読むのには時間がかかる。読み始めてから終わるのに3週間かかった。

1990年代前半に書かれた論文が大部分を占めているが、その主張は今でもほとんど色あせていない。それは著者の洞察力もさることながら、日本におけるジェンダー非対称が改善してこなかったことにも理由があるのだろう。

特に印象に残っている論文の一つは、「家族、積みすぎた方舟」だった。この論文はアメリカの法学者・政治哲学者であるファインマンの議論を紹介しながら進む。その主張は、フェミニズムのみならず社会運動全体について自分がなんとなく感じていたことを言語化してくれた。

「法は、支配的な文化的、社会的イデオロギーを反映したより大きな規範的体型のもとに編み込まれ、それによって制約を受けている。」・・・したがって法は「社会変革の主要な触媒や文化の変化にとって強力な道具になりえない」(本書77ページ)

だからこそ、社会を変えたいと願うのであれば、単に法律を変えるだけでなく、その法を作り出している社会の規範体型を扱わないといけない。

たとえば、「機会平等」のもとで女性が男性と「公正な競争」に参加することを是とする主張を、ファインマンは「古典的主張」(褒めていない)とよぶ。そもそもの競争のルールが男性を標準として作られているので、そこで競争を勝ち抜こうとする女性は、男性化せざるを得ない。そして、もともと存在している競争社会に潜むジェンダーバイアスを見えなくさせてしまう。

この点については個人的にも思うところがある。多くの企業において、人事制度は、出産や養育・介護を負担せず、ひたすら働く人間を前提につくられている。少なくとも、家庭に時間を割く人々は出世しにくい。そして、そのルールの下で出世した女性は、そのルールを否定せず、男性的な強者の論理を振りかざすようになる。例えば、「女性だからって不平等にさらされたことはない。上に行けないのは努力が足りないからだ」といった風に。なお、これは女性に限らず、「マイノリティ成功者」にはびこる根深い問題だと個人的には思っている。

また、日本男性は世界で三番目に家事に時間を割かない(韓国はワースト1位)。共働き世帯でも同じことが起きている。男性が家事を行う時間が少ない国と、男女の賃金ギャップは明確に相関している。企業の人事制度が変わらず、男性のほうが往々にして多くの賃金を稼ぐ現状においては、「合理的な」意思決定として、家事や介護・養育が女性に寄せされるようになる。

こういった非対称の状況において、法律だけを平等主義にしても、望んだ結果が得られない。変えるべき本丸は法律とは違うところにある。

ただし、ファインマン(と著者)は決して法律を変えるための運動が無駄と言っているわけではない。法自体には象徴的な役割があるし、人々の生活を実際に変えるものでもあるので、そのためだけにでも闘う価値がある。要は、法改正が全ての変化を成就させるものではないと知った上で変化に挑むべきである、ということなのだろう。 

 

もう一つ、本書において最初から最後まで通奏低音として流れているのは家族とは何か、という問いだ。そもそも明治より前においては家の定義は様々だった。父系の長子相続の家族というのは武士階級のみの話で、それ以外の人々は多様な世帯構成のもとに暮らしていた。母系相続や末子相続などもあった(モンゴル帝国も末子相続)。現在の家父長制は日本の伝統でもなんでもなく、国民国家が成立する過程においてつくられた発明品だった。

家父長制は父を絶対的な権力者として家に君臨させる制度であり、それに背く人々を容赦なく罰する。多くのシングルマザーとその子どもが陥っている苦境、婚外子が受けないといけない差別は、この家制度を外れた人間に対する懲罰である。

著者は30年前にこの近代家族は終焉に向かっていると喝破した。当時にはその徴候程度しか見られなかった。しかし今は離婚も増え、婚外子も増えていくなかで、「普通の家族」の輪郭はぼやけてきている。その慧眼には敬服させられる。

映画「万引き家族」は、まさに本書の冒頭の論文で指摘されていた多様な家族観を描いたものだった。この映画のヒットも、そういった背景があってのことなのではないかと個人的には思っている。

 


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