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走ることについて。15

死と苦しみについて、走りながら考えることが多かった。

死について

この期間、歩道の無い夜道やトンネルで、真剣に「もしかしたら死ぬかも」と思うことが少なくなかった。実際、この期間に歩道のない狭い道ですれ違った車の数は数千台を超えているわけで、そのうち一車でもハンドルを歩道ギリギリのところに進めていたら僕は死んでいたということになる。歩行者が普通はいないところを走り続けていたので、車の運転手側も注意がおろそかになることも十分にありえたし、実際に何回かは本当に危ない目に遭った。

そんな状況で、何度も思い浮かんだ情景は、不注意なトラックにボーンとはねられて、僕が横たわっているところに「GAME OVER」の字が浮き上がるもの。映画のシーンになるにはあまりにもあっけないので決して”The End”ではなく、ゲームの序盤で死んでしまったときのような風景。マリオの1面でクリボーにぶつかって死ぬくらいのあっけなさ。

そんなイメージを抱きながら、「この誰もいない山道で車にはねられて、犯人も見つからないまま自分が死んだとしたら、それは受け入れられることか」ということを、結構まじめに考え続けていた。大抵の人は、本業の途上で死ぬのならまだしも、そうでない場所で死ぬのは本意ではないと思うだろう。

でも、ずっと考えた結果、それは僕にとっては決して犬死にのようなものなのではないということで整理がついた(ところで、こういう死に方を「犬死に」と呼ぶのは、犬に対して申し訳ない気がする)。

死への納得感において大切なことは、それを迎えるときまでに自分のとっていた行動が、自分の心の命ずるところに従っていたかどうかにあるのだと思う。もちろん死にたくはないけど、自分らしくある中で、何かの不幸に遭って死んだのであれば、それは道半ばであるとしても、まだ許せる気がする。逆に悔やまれるのは、自分がやるべき・やりたいと思っていたことをしないまま死を迎えることのほうで、そこにはものすごい後悔が残るのだろう。

他の誰がなんと言おうと、僕にとって今回のマラソンの意義付けは明確だったし、その途中で仮に死んでしまったとしても、それは納得のいくものだと思うようになった。そのときから、例の「GAME OVER」の情景が頭をよぎることは無くなった。

これは、何かを達成するための勉強や訓練の途上で死んでしまうことをどう考えるのか、というお話にも敷衍することができる考えなのだろう。志半ばで死ぬことは心残りではあるけれど、運命は残酷なもので、時にはそれは避けがたい。僕達がコントロールできるのは、自分が少なくともその志半ばに立っているのか、そこにすら立っていないのかの選択をすること。ベストを尽くそう。


苦しみについて

だいたい、何らかの啓示は美しい光景とともにやってくる。峠を越えて、敦賀の美しい海を眺めながら走っている時に、ふと苦しみとの付き合い方について気づいたことがある。

(ちょうどこのアイデアが思い浮かんだ時に見ていた海)

苦しみとの付き合いかたは、それから目を背けないで、直視して、抱きしめることだ。苦しみは、何かをし続けている限りずっと隣に座り続けている座敷わらしみたいなもので、いくら追い払おうとしてもいなくなるものではない。だとしたら、せっかくなのだから苦しみとは友だちになったほうがいい。そうしたほうが、はるかに気は楽になる。

仏教やキリスト教などでよく言われている教えのひとつに、「あなたは苦しみ続ける」というものがある。ニーチェはこれを奴隷道徳としてこき下ろしたけれど、いまならニーチェに反論できるかもしれない。彼に、「これは、人間が決して離れることができない苦しみに対してどのように向き合えば幸せになれるかについて、一種のライフハックを教えているのだと僕は思う」と話したら、どんな反応をするのだろう。「超人であればそんな苦しみなど抱かない」とか言うんだろうか。

誰かに虐げられていても、そうでない状況であっても、人は何らかの苦しみから逃れることはできない。その苦しみを災難と捉えるのではなく、その苦しみがある状態をデフォルト設定と考えれば、世の中に残るのは喜びしかない。苦しみは生きている証拠で、それを友とし、道連れとしたい。


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