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走ることについて。17

靴を5足履きつぶして長い距離を走りぬいて、僕は何を学んだのだろうか。ここまで書けなかったことについて、最後に書いてみたい。


まずは、途方に暮れたときにどうするべきか、について。

日々のランニングの記録は、宿の布団の上もしくは各ラウンドが終わったあとに帰りの電車の中で書いたものだ。すなわち、走っている時の辛い心境が少し忘れ去られたタイミングで書かれている。この道中記が若干淡々としたトーンになっているのは、僕の性格によるものだけでなく、一仕事終えた後の安堵とともに書いているから、というのもあるのだろう。

実際のところはもっとつらいことばかりだった。特にきつかったのは、後半の富山→福井と福井→鳥取の区間。たくさんの坂道、きびしい雨降り、寒さ、一日に走らないといけない距離の長さ、アキレス腱の痛み。

一番印象に残っているのは、兵庫県の朝来市に入ったときのことだ。山奥で24時を回り、周りには何もない、気温は氷点下で休むと身体が凍りつく、でも足は動かすだけで痛い、今日のゴールは残り20km。明日は更に90km走らなければいけないと考えただけで気が滅入る。

人が途方に暮れる理由の一つは、ゴールまでの道のりが想像つかないほどに遠いからなのだと思う。想像がつかない遠さは、そこに辿り着くまでにかかる時間を読めなくする。

この「耐え忍ぶ時間が読めない」というのがポイントだ。辛い境遇に直面しているときでも、人はその期間にいつ終わりが来るのかを明確に分かっていたら耐え抜くことができる。しかし、その時間が全く読めなくなると、多くの人は崩れ去ってしまう。今回のランニングの場合は、走る距離は決まっているものの、身体のコンディション的にいつまでにそれを終えられるのか分からないということに、途方に暮れる要因があったのだろう。

こういう、終わりが見えない忍耐をしているかのように感じて、どうしても気持ちが落ち込んでくるときにやるべきことは、ゴールを細かく設定して、足を前に踏み出すことなのだと思う。

先にも言ったように、人が途方に暮れる原因は、現在進行中の忍耐の終わりがいつなのかが見えないことにある。なので、まずはこの状況についての見方を変える必要がある。「〇〇まであと100km」といった看板はいったん見なかったことにして、とりあえずは10km先にある町に狙いを定める。そこまで行けば、コンビニやご飯を食べる場所もあるので、そこで小休止することができる、と自分に言い聞かせて。10kmであれば、歩きながらでも2時間でたどり着く。よし、頑張ってみよう、あと1万歩進めばいいから、100歩進めばもう100分の1だ、という風に。

こういう確信を得るためにも、様々なことにおいて行動計画を練るのは大切なのだと思う。これから1年でやること全てのゴールだけを眺めていると気が遠くなってしまうから、行動を可能な限り細分化することで、達成感を得ながら前に進むことができるようになる。

ただ、時には、ゴールを細かく設定できない場合もある。そもそもゴールがどこなのか分からない時だってあるからだ。

そういうときであっても、まずは立ち止まらず、愚直に足を前に進めることだ。足を前に進めることで、どんなに遠くてもゴールは近づいている。今進んでいる方向が間違っているかもしれないとしても、とりあえず前に進めば自分が進んでいる方向が間違いであったことには気づくことができるし、それはそれで一つの価値ある前進だ。とにかく足を前に踏み出すということを続けることで、僕たちはそれでも自分は前に進んでいるという揺るぎない確信を得ることができる。

それでも足が前に出ないときは、何かの力を借りる。走るときであれば、足を前に踏み出すのと同じテンポの曲をかけ続ける。今回の走りでは、序盤は「ヘビーローテーション」にお世話になったけど、普段から僕のiPhoneには「ランニング用音楽」というプレイリストがあって、気が滅入るときはその音楽を聴きながら足を前に出す。一番のお気に入りは、スピッツの「8823」という曲。ラジオ番組に出してもらう際に、途中に流れる曲を自分で選べるような場合には、まずこれをリクエストするくらい好きな歌。

ここで述べたことを、ゲーテはたった一言で表現した。天才詩人の一文は、凡人の百文に勝ることをまざまざと見せつけられる。

「ただ溌剌とした活動によってのみ、不愉快なことは克服される。」


次に、自然との関わりについて。

スポーツをやっている人の全員が気持ちのいい性格の人かというとそうでもない。プロ選手であっても、自意識過剰で、世界が自分を中心にして回っているような人もたくさんいる(まあ、こういう性格になれないので羨ましいと思っているだけかもしれないけれど)。

けれど、あるスポーツを本当に愛して長年やっている人はほぼ全員が気持ちのいい人であると(僕の限られた経験上)いえるスポーツがある。

それはサーフィンだ。

あるデザイナーさんは、一目見たときから、「あ、この人と一緒に仕事したいな」と思わせる気持ちのいい人だったのだけど、その人はサーファーだった。モルガン・スタンレーのときに会った、ものすごく仕事ができるけど気持ちのいいお兄さんもサーファーだった。LIPのメンバーで最も方の力が抜けているお兄さんも、いまはバリ島でサーファーをしながら研究者をやっている。そして、仲の良い大学教授もサーファーだった。

ちゃらちゃらしたサーファーや競技の世界で生きている人は除いて、本当にこのスポーツを心から愛して続けている人には、僕の知るかぎりは気持ちのいい人が多い。その理由を考えていて、最近やっとそれらしい答えがでた。

それは、サーフィンというスポーツにおいては、「人間は自然に抗うことはできない」という基本命題があるからではないだろうか。できることは、自然の波に乗り自分の身体を運ぶことであって、波に対抗しようとしたら溺れてしまう。

そういうスポーツをしていたら、人間の小ささについての自覚と、自然への畏敬の念が生れてくるはずだ。そこにこの、「肩の力が抜けたスッキリした感じ」が表れてくるのではないかと思う。

超長距離を走ることを通じても、この自然への畏敬の念は味わうことができる。限界近くまで走っているときに悪天候がやってきたときなどは、この境地に(場合によっては)たどり着くことができるようになる。

そういえば、僕は長い距離を走るようになって、愚痴を言うことが随分と減った。これは、走るということを通じて周囲の環境に文句を言うことがどれだけ詮無いものであるか思い知ることが多かったからかもしれない。

自然や環境を変えることはできない、もしくは容易ではない。比較的容易に僕たちができるのは、その変えられない自然の中で自分がどうあるべきかの選択であって、その選択をしている最中の自分との会話を通じて、僕たちは少しずつ謙虚で素直になっていく。そして、肩の力が抜けてスッキリしてくる。

一度、アメリカ横断マラソンを走りぬいた海宝道義さんがお話をされているのを近くで伺ったことがある。肩の力がこれでもかというほどに抜けていて、本当に気持ちのいい方だった。僕も走り続けることで、ああいう境地に至ることができたらいいなあと思う。


最後に、挑戦することについて。

走っていると、多くの人が夜中でも働いているのを目にする。寒いなか工事現場で働いていたり、真夜中でもコンビニで働いていたり、と。

這うようにして真夜中の鳥取県を進んでいたときのこと。コンビニで暖かいご飯を食べて元気を取り戻し、さてまた動き出そうとしているときに、道路には午前2時にもかかわらず工事をしている若いお兄さんたち目に入った。僕よりも随分と年が若そうにみえた。

なぜかその時に、心の底から、「ああ、僕はこの人たちのお陰で、挑戦とか冒険とか修行ができているんだ」ということを思い知った。なぜかいつも啓示は突然にやってくる。

挑戦とか冒険とか修行とかは、他に働いている人がいるからやらせてもらえてるものであって、その境遇にある自分に感謝することはあれ、自分が為した何か、為そうとしている何かをたのみ傲慢になることは大間違いだと思うようになった。

起業だってそうだ。もちろん本人には「世の中に価値のあるものをつくり出す」という信念があるのだろうけれど、それが客観的な真実であるかどうかは誰にも分からないし、少なくとも開始当初においては99.99%の起業家は世の中から何かを受け取ってばかりだ。チャレンジをさせてもらえるのは、今すぐ世の中に必要とされている仕事をやっている大勢の人々がいるお陰。

いろいろなものを投げ出して取り組める状態にある仕合わせに感謝し、あとは淡々と走り続けよう。周りにどう思われるとかいった感情はどこかに投げすてて、自分の心が命ずることにどれだけ忠実であるかだけを真摯に問い続けよう。その心のあり方も、とらわれず、固執せず、我を通さず、謙虚で素直に。


(以上で、走ることについての書き溜めはおしまいです。これを元に編集者である安藤聡さんと一緒に加筆修正を行なって本を作っていきます。最終的にどんなものになるのか、乞うご期待(してくれる人が何人いるか分かりませんが)。)


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