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「善く生きること」は正当化できるのか

いま、プラトンの著作にはまっている。大学生の頃に読んでもあまりピンと来なかったのに、今になって読んでいると、哲学書にも拘らず泣けてきたりする。

プラトンの著作は基本的に対話篇で、後期の作品を除くと、基本的にプラトンの師匠であるソクラテスが色々な人と対話をしながら、その哲学が開陳されていくというスタイルをとっている(そういえば、「15歳からのファイナンス理論入門」を書いた時も、このスタイルに憧れて対話篇の形式にしたんだよなあ)。なぜソクラテスが書いた本が一冊も存在しないかというと、彼は文字というものを信用していなかったからだ(詳しくは「パイドロス」に書いてある)。

それはさておき、プラトン・ソクラテスにおける哲学とは、真理を探求することであって、その真理は美しく、かつ善いものである、というのは有名な話だ。いわゆる真善美。プラトン・ソクラテスがずっと考えていたことは、人はいかにしたら善く生きることができるか、そして可能であれば自分以外の他人を善く生きるように導くことができるかにあった。

「ゴルギアス」において、プラトン(ソクラテス)は、政治の役割とは人々の魂を善に導くことであると主張し、それゆえにギリシャの歴史にはまともな政治家はいなかったと喝破する。確かに、当選することや、自分のやりたいことを追いかけるだけで、自分の任期のうちに、人々の魂をより善いものに導こう、民衆がより立派な人間になるように導こうという政治家は現代にもほとんどいない。プラトンからすれば、この貴重な仕事をしていた唯一の人物はソクラテスであったし、そのソクラテスが若者を堕落させているとして死刑になったという体験が、「国家」において体系化される哲人政治の着想を彼に与えたのは想像に難くない。

さて、このプラトン・ソクラテスにとって、人は善く生きるべきであるというのは、重要なテーゼとなっている。「いかにして善く生きるか」は僕自身にとってとても差し迫った問題であるので、僕がプラトンの本を読みながらいつも追いかけているのは、この問についての彼らの思想のありかただ。そういった視点から注意深く読んでいると、プラトン・ソクラテスの哲学の重要な前提が分かってくる。

その前提とは、魂が不滅であって、死とは魂と肉体が分離するだけのことで、その魂はまた肉体に戻ってくる(輪廻転生)ということだ。「パイドン」がまさにこの問題にあたっていて、ソクラテスは魂の不滅と転生について一応の証明を与えているのだが、どうもいつもと較べて歯切れが悪い。

一方で、プラトンの著作を注意深く読んでいると、彼は、魂の転生やそれにまつわる神話について「信じている」という言葉を幾度となく口にしている。人が考えること・信じることと(主観的信念)、真実(客観的事実)を知ることとの違いを明確にしていたソクラテスが、言葉のアヤで信じると言うとはなかなか考えにくい。

また、ある個所では、プラトンは仮説思考法という方法論を持ち出しながら、「ある前提から、全体において調和する結論が導けるのであれば、その前提を真としよう」という話までしている。

こういったことを考えると、この輪廻転生は単なる前提条件というよりも、ソクラテスが、より善く生きるためにはどうするべきなのかを考えるうちに思いついた、一種のライフハックだった可能性すら否定できない。輪廻転生を信じるのであれば、現し世において欲望に振り回されることなく善く生きることを正当化できるからだ。ソクラテス自身が、そう信じたほうがよく生きれるのであればそう信じればいいじゃないか、といった発言すらしている。

ここに辿りついたとき、若干絶望的な気分になった。プラトンの本を読めばすぐに同意してくれると思うけど、ソクラテスほどに、考えるということを深堀りした人類はそんなにいないと思う。彼は最低限の公共の仕事をする以外は、人と話しながら考えつづけることに費やした。そんな彼が、善く生きることを正当化するためには、来世の存在を持ち出さざるを得なかったのだ。

2,400年前に生きた人たちが羨ましい。この時代に生きた人々にとっては、輪廻転生は信じるに足る仮説だったのだと思う。しかし、現代に生きる僕は魂の存在までは信じることができるし、人生の目標は自分の魂をよりよいものに磨くことであるということも納得できるけど、輪廻転生までは信じることができない。来世とかも、今のところはよく分からない。来世を信じられないと、どうしてもそこにはちょっとした虚無感がつきまとうし、それが今の自分なのだと思う。

来世についてのファンタジー(もしかしたら本当に来世があるかもしれないけど)を否定した上で、善く生きることを絶対的な真理として打ち立てることは、なんと難しいことだろう。見方を変えると、これこそが、現代に生きる僕達が直面している、もっとも差し迫った哲学的課題なのかもしれない。

この問題意識が、僕がプラトンの著作を読む際の最大の関心事になっている。もう少し深くテキストを読み続けると、2,400年前に善く生きることを考え続けた彼らが現代においてはどう考えるのかについて、何らかのヒントが見えてくるのかもしれない。まだまだ読むべき本は沢山あるので、一縷の望みをかけながら、読み続けるようにしたい。


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