リーダーのあり方

五常・アンド・カンパニーの社名は二宮尊徳がつくった五常講に由来している(会社のURLがgojo.coなのは「ごじょうこう」だから)。五常は仁義礼智信のこと。仁義礼智を説いたのは孟子で、それに董仲舒が信を加えて五常となった。孔子の論語、孟子、朱子(彼が大学と中庸を礼記からピックアップした)の思想は日本の近代の指導者たちに深く根付いていて、二宮金次郎や西郷隆盛の思想の土台となっている。

ちょっと思い立って久しぶりに孟子を読んだら、改めて個人的に思うリーダーのあり方について併せて書きたくなったので、noteにした。人を息苦しくさせるつもりは全くないのだけど、自分が信じていることを書くのは別に大丈夫だよね。僕がこれに書いていることに従っていなかったら、いつでも批判してほしいし、そうされたら直すつもりだ。


仁義に基づいた統治

ある国の君主に対して、孟子は国を治めるのに「大事なのはただ仁義だけです。」と喝破する(上巻P35)。君主に仁義があれば、国は自然と治まるというわけだ。いくつかにまとめると、それはこういうことになる:

■組織に関わる皆の幸せを願い、皆が普通に暮らしていけるようにすること
■指導者自分だけが楽しみを享受しないこと
■自分自身の身をきちんと正して、一番近くにいる同僚から敬慕されること(怨みや怒りを受けるのはもってのほか)
■自分自身が善に基づく指導原理を嘘偽りなく体現すること
(真心をもって行えば皆自然とそれに従う)

なので、孟子によると、従業員が低い給与で苦しんでいるのに自分だけ贅沢をする経営者は失格だし、言っていることとやっていることが違っている指導者は失格だし、皆が一生懸命に働いているのに自分だけ遊んでいる経営者も失格だ(遊んでいるように見えて、事業に役立つことをしているのならいいのかもしれないけど)。

僕が尊敬する19世紀と20世紀の経営者は二宮尊徳とマービンバウアーなのだけど、彼が行ったことはまさにその通りだった。二宮尊徳は常に自分が率先して働いたし、マービンバウアーはマッキンゼーの発展のために自分のマッキンゼー株を投資時価格で次世代のパートナーに売った。

西郷隆盛は「己を慎み、品行を正しくし驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行われ難し」と言っていたけど、それも同じだと思う。

というわけで、本書からいくつか引用。

上巻P66 老人が絹物を着て旨い肉を食べ、一般庶民が飢えも凍えもしない。このような政治を行って、遂に天下の王者とならなかったひとは、昔から今までにまだ一度とございません。

上巻P197 そもそも、人民の通性として、きまった職業や収入のあるものはゆるがない道義心がありますが、きまった職業や収入のないものは、とかくゆるがない道義心はなくなりがちなものです。

上巻P70 こんなにまで怨まれるのは、外でもありません。人民たちといっしょに楽しまれないからなのです。・・・もし人民たちと一緒に楽しまれるようにされたら、やがては天下の王者となられることでありましょう。

下巻P20 国君が政治をとることは、そう難しいことではない。まず第一に自分の身を正して、譜代の重臣たちから怨みや怒りを受けるようなことをしなければそれでよい。重臣たちが心から敬慕すれば、やがて一国の人も敬慕するようになり、一国の人がこぞって敬慕すれば、やがては天下の人もみな敬慕して心服するようになる。

下巻P311 善いことが好きならば、広い天下を治めさせてもまだ余裕がある。

下巻P26 人々が自分から自分を侮ってだらしない行為をするから、他人もその人を侮辱するのであり、家庭も自分から破滅するような原因をつくるから、他人もその家庭を破滅させるのであり、国家も暴政を行って国内の怨みをかうようなことをするからこそ、他国も侵略してきてその国を滅ぼすのである。

下巻P50 上に立つ君主さえ仁愛が深ければ、国中みな仁愛が深くなり、君主さえ義を重んずれば、国じゅうみな義を重んじるようになり、君主さえ正しければ、国じゅうみな正しくならないものはない。

下巻P66 人君が臣下を自分の手や足のように大切に扱えば、臣下はその恩義に感じて君主を自分の腹や胸のように大切に思います。

下巻P77 人を心服させようという下心で、いくら善いことをしたとて、ほんとうに人を心服させることはできない。ふだんから善い事をして人を教え導き感化してゆけば、しぜんに天下の人の心を心服させることができるものだ。天下の人が心服もしないのに王者となった例は、昔から今までにまだ一度もないのである。

下巻P331 人民の生活を安楽にしてやりたいという心づかいから、人民を使うなら、いくら苦労しても決して怨みはしない。また人民の生命を保護したいという心づもりから、やむなく多くの人に害悪を行なう人間を殺すなら、たとい死刑にしても、決して君主を残酷だとして怨みはしない。

礼儀

仁義の心に基づいた行いを礼という。自分の組織が大きくても小さな組織を侮らないこと、友人に対しては人格を友にするのでありそれ以外の付属物は全く鼻にかけるべきでない、と孟子は説いた。

人付き合いのスタイルを、その相手と自分の現在の状況を理由に変えるのは最悪のことだと僕は感じていて、昔からの友人とはずっと変わらずにいたいと個人的には思っている。もしそれが変わるのだとしたら、お互いの状況ではなくて、考え方の違いが理由であるべきだ。

上巻P75 たとえ、こちらが大国であっても、隣の小国を侮らずに礼を厚くして交際することが肝心ですが、これはただ仁者だけができることです。・・・また反対にこちらが小国ならば、たとえいかに圧迫されてもよくこらえて大国につかえて安全をはかることが肝心ですが、これはただ智者だけができることです。

下巻P187 自分が年長者であるとか、身分が貴いとか、兄弟が立派であるとか、を鼻にかけてつきあってはいけない。いったい、友人というものは、その人の人格を友とするもので、少しでも鼻にかけたり得意になったりするところがあってはいけない。

性善説

そういう仁義の心は全ての人に具わっているというのが孟子の主張で、これが性善説といわれる所以だ。ただし、性質として具わっていても、努力して引き出さないとそれが体現されることはない、と彼は注意している。

上巻P141 あわれみの心は仁の萌芽であり、悪をはじにくむ心は義の萌芽であり、譲り合う心は礼の萌芽であり、善し悪しを見分ける心は智の萌芽である。人間にこの四つの芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具わっているものなのだ。

孟子が説いている道徳律はとてもプリミティブなものだ。少なくとも東アジアで生まれ育った人であれば、皆がコモンセンスの次元で共感することだと思う(そういう教育がされてきたからかもしれないけど)。

僕は「子どもの道徳律」を大切にしたいと思っている。それは小学生高学年くらいの子どもであれば理解することができて、同意するようなもの。大多数の子どもが「ずるいよ」とか「うそつき」とか言うような行為は、多分間違っている。

弁の立つ大人は糊塗しがちだけど、子どもの道徳律以上に強いものはないと僕は信じている。もちろん僕もいつも道徳律通りに生きていけるわけではないのだけど、おかしいと思ったら可能な限り早く是正できるように努力している。

克己

そういう人間になるために自己修養することが克己なわけだけど、西郷隆盛は克己とは「身勝手な心を持たず、無理押しをせず、物事に固執せず、我を張らない」ということだと言っている。要は人間にある自分可愛さを乗り越えることこそが克己だということだ。

これが克己におけるセカンドベストで、過ちを指摘されたら感謝して改めること(子路や禹王はそうだった)。これすらも出来ない人が多くて、見苦しい言い訳が多い。

ただ、ファーストベストはもっとすごくて、そういった忠告を受ける前に、立派な人や立派な行いを目撃したら自らを改め変えることができること(これは伝説の帝舜ができたことと孟子はいう)。ファーストベストは聖人だけができることなので、凡人である僕が目指すはセカンドベストだと思っている。

セカンドベストが出来ている人は、自分が悪い状況に立っているときに、それを他人のせいにしない。他人が無道と思えても、それは自分が招いたものだと考えて、まず自分を省みる。

下巻P100 今ここに一人の人があって、その人が自分に対して無理無道をしむけてきたら、君子は必ず(腹を立てずに)まず自分を反省する。「これはきっと自分が不仁なのだろう。きっと無礼なのだろう。そうでなければ、相手がこんなに無理無道をしむける筈がない。」いくら反省して見ても、自分は不仁でもなく無礼でもないのに、相手が依然として無理無道であれば、君子はまたも自分を反省する。「これはきっと自分の誠意が足りないからだろう。」なおかつ依然として無理無道であれば、君子ははじめて考える。「この男は無茶な人間だ。これでは禽獣とどこがちがうのだろう。禽獣と同じだとすれば、べつに非難してみても始まらない。」

困難は人を育てる

克己できる素養のある人が重い困難を経験し続けると、自然に立派な人間になっていく。そして、そういう人が天から世界を任されるようになる、と孟子は説いた。

大きなことを成し遂げる人の多くが、大病や投獄などを経験することが多いのもそれが理由なのだろう。

下巻P316 舜は田畑を耕す農夫から身を起こして、ついに天子となり、傅説は道路工事の人夫から挙げられて武丁の宰相となり、・・・(同じような例が続く)。故に、これら古人の実例を見ても分かるように、天が重大な任務をある人に与えようとするときには、必ずまずその人の精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、その行動を失敗ばかりさせて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものだ。これは天がその人の心を発憤させ、性格を辛抱強くさせ、こうして今までにできなかったこともできるようにするためである。いったい、人間は過失があってこそ、はじめてこれを悔い改めるものであり、心に苦しみ思案にあまって悩みぬいてこそ、はじめて発奮して立ちあがり、その煩悶や苦悩が顔色にもあらわれ、呻き声となって出てくるようになってこそ、はじめて(解決の仕方を)心に悟るものである。

起業して5年間、いろんな嫌なことを経験し続けているのは、神様がまだ僕を見捨てていない証拠なのかもしれない。そして、今もなお辛いことばかりなのだけど、これが神様から与えられた訓練なのだと思っていたら、まだまだやっていけるよね。



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