才と器

◯◯出身とか、◯◯保持者とか、ちょっとした話をするときに見せる機転とか、そういうもので人を評価する人は多いと思うのだけど、僕はもっと分かりにくい根っこのところも見たいと思っている。その根っこの部分は目に見える肩書やちょっと喋ったら分かるような聡明さとは全く別次元のものだ。とっても分かりにくいものなので、面接でそれを分かろうとしても無理な話だ。圧迫面接をしたとしても、それは所詮は面接なので見抜けない。

これだけだと何のことを言っているのか全く通じないと思うので、ちょっと言い換えてみると、僕は「もしこの国でいきなり内戦が起きたとしたら、その人はどう行動するのか」、「その人がすごい権力(や名声やお金)を手にしたとしたらどういう風に振る舞うか」、「絶望的な状況に直面したときに何をするか」、といった側面をその人の才能と同じくらいに重視する。だから例えば、ものすごくストレスのかかる状況に陥ったときに、その人がどう振る舞うかについてはとても注意深く見ることが多い。物事がうまく進んでいるときに英雄のように振る舞うのは誰でもできる。

どんなストレスのかかる状況でも変わらずにあり続けられるかどうかが、その人の器の大きさなのだと思う。器を僕なりの解釈でいうと、原始時代のように、小手先の機転や知恵が幅を利かせる程度が低い状況で、その群れのリーダーが持っている資質といえば良いのだろうか。いきなりデカイ動物に囲まれたときに、その人について行きたいと思わせる、すなわち「こいつについていけば多分生き残れる」と思わせる何か。

小さな仕事は才能でできるけど、大きな仕事をするには器が必要なのだと僕は思う。もちろん、才能なしに器だけあっても意味がないので、両方大切だと思うのだけど、今の世の中は才能を重視しすぎな気がする。

この器の議論は才能だけでできている秀才タイプの人にはなかなか理解されないのかもしれないし、一部の組織ではそもそも必要とされない可能性もある。例えば、ガンジーや西郷隆盛が賢いだけの能吏タイプの人たちの会社で面接を受けたら「薄気味悪いバカが来た」と落とされるのだろうと思う。また、官僚組織のように、そもそも実務が最重要で個々人の器の大きさが問われる局面が非常に少ない(それでもトップになると必要だけど)組織でも、器は軽視されることになるだろう。一言でいえば、テクノクラートが幅を利かせていたり重視されたりする組織には、器が大きいけど才はいまひとつ、という人はハマらないのだと思う。

大抵の会社組織には人材の才と器のバランスが相応にとれていた方が良いと思うんだけど、目立つ会社であればあるほど、前者に傾斜しがちな気がしなくもない。これは個人的な主観でしかないのだけど、僕は頭だけがよくても器が微妙な人たちのやる事業というのは危なっかしいと思う。事業そのものが危なっかしいだけでなくて、事業が少しうまくいかなくなると、そういう才気煥発の類の人たちは潮が引くように組織を去っていく。

今までで一番時間をかけて運営してきた組織はLIPだけど、これは6年間この組織を運営をしてきて学んできたことでもある。たぶん、才気煥発タイプの人たちだけで組織ができていたら、6年も続かなかっただろう。

LIPの話とはいえn=1の話なので、それはすなわち、この意見はあくまでも僕の主観にすぎないということだ。だから、僕が正しいという保証もないし、それを立証するつもりもない。なお、僕にその器があるということでもない。ただ、僕はそうだと信じていて、自分の専門性を高めつつも、それよりも器を大きくするための努力をしていきたいという指向性があるだけだ。

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