過去を乗り越えるための三段階

過去を変えることはできないけれども、過去にあったことの意味を変えることはできるし、それは今を生きる人の営みになる。そして、それは場合としては生きていくために必要なことにもなる。

誰であっても、子どもの時に嫌なことを経験して、それがトラウマとなっていることはあると思う。程度の差はあれども。

ある程度の時期までは、人はそれを直視することができず、口にだすことができない。一定の時間が経つと、直視はできるけれど、その過去からは憎しみの物語しか構成されない、という段階になる。口にするのすら嫌だった過去を改めて引きずり出して、自分を苦しめた人を馬鹿野郎と罵るということになる。

でも、過去を憎しみの物語として構成するだけで生きていくのは随分と苦しいことで、どこかのタイミングで、過去の事実を題材にしつつも、誰かを憎まないでも済む物語、すなわち愛にあふれた物語を作る必要が出てくる。例えば、自分にトラウマを与えた母の言葉に対して、「ああ、母はああガミガミ言っていたとき、私のことを愛していたのだな」といった風に考えるようになるということだ。

僕自身の経験を踏まえても、個人が過去のトラウマを乗り越えて成長をするときには、こうやって、過去の事実を見つめる段階、事実をもって憎しみの物語をつくる段階、そして最後に事実を元に愛にあふれた物語をつくる段階を経ないといけないみたいだ。

また、「赦し」が人間の精神の救済において重要な役割を果たすのはこのためなのだろう。赦しは現在に対するものでもあるけれど、過去に対するものでもあるわけだ。ことトラウマの超克においては、過去における人物に対する赦しのほうが大切といえるのかもしれない。

合成の誤謬には用心すべきだが、社会においてもある程度同じことがいえるのだろう。現在においても過去の話がかくも喧しく語られるのは、国民が過去のトラウマを乗り越えるために新しく構成された物語を必要としているからなのかもしれない。その意味において、歴史は常に現代史であり、現代において構成され続けることになる。

もっとも、事実そのものをねじ曲げて美化するのは、トラウマを乗り越えるための最も低次の段階にすら到達していないことを意味するので、問題外のわけだが。



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