親と暮らせない子どもについて知りたい人が、これさえ読めば概要を理解できる記事

先日、G1サミットに参加している知事・市長ら10人に「日本の社会的養護、特に児童養護施設についてデータに基づいたマクロの議論を15分で話す」というお題を頂いた。ただでさえ起業で忙しいうえに荷が勝つテーマではあったけど、子どもたちの状況がこれで良くなるのなら、と一生懸命に資料を用意した。せっかくだから、ここでその概要をお伝えしたい。人間のモノを読むスピードは聞くよりはるかに早いので、さっと読む分には10分あれば足りると思う。時間が無い人は、スライドの写真だけを読めば大体概要が分かるようになっている(これならざっと見るだけなら3分)。

では、まずは議論の概要を。児童養護施設について、よく語られるのは、その出身者らの現状だ。20%が高校中退をする、低い就業率、生活保護受給など、とにかくこういった現象面が目立つ。しかし、その背景はもっと複雑であって、それを敢えて3つに分けると、(1)貧困を背景とした虐待増加、(2)施設のヒト・モノ・カネが不十分な現状、(3)そもそも社会の関心が低いため、日本の子ども・教育向け支出が先進国最低レベル、という3つに分けられると思う。これらの課題を踏まえると、この課題解決にはそもそも国がもっと子どもにお金を使うべきではないかと僕は思う。


では、以下、順を追って話していこう。

格差・貧困・児童虐待

そもそもの話をすると、児童養護施設とは、何らかの事情で親と育つことができない子どもが生活する施設だ。後述するように、そういう事情にある子どもが育つ環境として里親家庭もあるが、日本ではそれは20%程度に留まっている。昔は、戦災孤児を引き受けることが多かったため、「孤児院」という名前で知られていた。

その施設に子どもが入所する理由はこの30年で様変わりした。1978年に入所理由トップだった親の離婚・不和・死亡・行方不明は、2008年には5位・6位になり、一方で元々少数派だった親の虐待・就労・経済的理由(要は親の貧困)が今や1位・2位になっている。

日本の貧困がどんな状況かを改めて確認しておこう。僕たちの実質所得は、1990年代末にピークを迎えた後には下落を続け、30年前の水準に戻っている。一方で、相対的貧困率は着実に伸び続け、現在一人あたりの等価可処分所得(家計所得を家計人数の平方根で割ったもの)が110万円以下の貧困家庭は16%となっている。特に貧困率が深刻なのは母子家庭で、3分の2の母子家庭では世帯収入が300万円以下だ。

日本が一億総中流の国であるというのは今や完全なる幻想であって、その貧困率は世界的にも高い。貧困家庭にある子どもの比率、すなわち子どもの貧困率は、OECD各国の中で、日本よりはるかにまずい状況にありそうなイメージのある国とほぼ同じレベルにある。特に、ひとり親家庭の子どもの貧困率は、OECD加盟国のワースト1位になっている。その大きな理由は、シングルマザーが働き口を探すのが難しいことにある。

物質的貧困は、家庭にも着実にストレスを与える。もちろん、物質的に恵まれている家庭でも児童虐待は起きるが、実態として児童虐待で通報される家庭の多くが経済的に問題を抱えていることが多い。その児童虐待相談件数は、ここ数年も増加の一途をたどっている(ただし、通報の増加が問題の深刻化と一致しない可能性があることには注意が必要だ)。

虐待は子どもの精神状態に明確な影響をもたらす。その影響のあり方は様々だが、過去20年で児童養護施設に入所する子どものうち、なんらかの障害をかかえる子どもの数は2倍になっている。


日本の社会的養護の状況について

こうった貧困や虐待などが原因で親と一緒に暮らすことができな子どものために、社会が用意する養育環境を社会的養護という。

子どもたちがどのような過程を経て児童養護施設に行くようになるのかというと、次のようになる。まず通報などがあり、特にまずいケースだと判断された場合、その子どもは一時保護所に預けられる。そのうち、家庭に戻ったり、裁判になったり、入所したりする子どもは約6割。家庭復帰が難しいと判断された子どもたちは、親と離れて暮らすことになる。

そのうち、現在8割くらいの子どもは施設で暮らすことになり、2割が里親家庭で暮らす。施設には様々な類型があるが、この中でもっとも多くの子どもがいるのが児童養護施設だ。日本ではとにかく里親の比率が低く、その理由としては(1)社会の認知が低い、(2)子どもが里親に預けられるのを実親が拒否する(子どもを里親にとられるのではないかと警戒するらしい)、(3)児童相談所が子ども対応に忙しすぎて元々からよく知っている施設にとりあえず預けてしまう、など様々だ。子どもにとってベストな選択肢が常に提供されている状態が理想だが、現状はその理想とは遠いところにある。


一般化はできないが、児童相談所が子どもを里親に預けるか、施設に預けるかの選択に直面したとき、被虐待児で複雑な状況にある子どもであるほど施設に預けられることが多い。それは、(本人のせいではないのだけど)こういう子どもはトラブルを起こしやすく、里親家庭では子どもに何かがあったときに対処するのが難しい一方で、施設であれば専門性の高い職員もいるため対応できる可能性が高いだろうという計算があってのことだ。里親家庭で引き受ける子どもとのマッチングがうまくいかないと、場合によっては里親家庭そのものが壊れてしまうことすらある。施設であれば、児童指導員との相性が悪くても生活のユニットを変えるなどして対応することもできるし、専門の心理療法士もついている。

児童養護施設の建物は、一つの生活単位(食事・風呂など)に何人の子どもがいるかによってタイプが分かれる。最も多くの子どもがいるのが大舎で、これは合宿所のようなイメージだ。一方で、小舎はひとり親で子どもが6人いる家庭というイメージになる。大舎は大勢の子どもを見るのに「効率的」という理由から、戦後間もない頃に建てられた施設の多くが大舎に属していた。しかし、より家庭的な養育環境を子どもに準備するために、小舎を増やしていくべきというのが時代の要請だ。

過去4年の間に大舎は減り、小舎の建物は増えている傾向にある。しかしながら、まだ人数ベースでいえば多くの子どもが合宿所のような場所で生活をしている(なお、下記グラフでは、1施設で小舎の区画と大舎の区画がある場合には、小舎1、大舎1とカウントされるため、合計しても全国の施設数とならないことに留意されたい)。

小舎への移行が早く進まない最大の理由は、施設を小舎にするための資金を十分に積み立てている児童養護施設が多くなく、施設新設のために借入をしようとしても返済原資がないということで却下されてしまうからだ。社会的養護の建前は「家庭で育つことができない子どもに、社会が養育環境を準備する」というものなのに、施設側の資金不足が理由で建て替えが進まないのは随分と変な話だ。

次に、ヒトの話に移ろう。子どもの親代わりとなるケア職員(保育士や児童指導員)の配置基準は2013年までは40年間変わっていなかった。例えば、配置基準が6対1の場合、受け入れている子どもの数が6人であれば、ケア職員1人を雇うだけのお金(措置費)が、国や地方公共団体から支払われることになる。直近の配置基準は学童以上の子どもで5.5対1、3歳〜学童以前で3対1、それ以下で1.6対1となっている。

5.5対1ということは、11人の子どもに対して職員が2人つくということだ。一人の職員が24時間子どもの対応をしているわけではないので、ケア職員1人あたりの子どもの数は平均すると10人になる(なお、これは一つ以前の配置基準の時のデータなので若干改善はしているものの、ほぼ変化はない)。

この、一人の職員で10人の子どもの対応をするというのはとんでもないことだ。一度経験してみると分かるが、普通に家事を回すだけで一日が怒涛のように過ぎていく。しかも、相手とするのは、多くが虐待を受けたり様々な家庭の事情で複雑な心持ちを抱えている子どもたちで、本当ならば一人ひとりが手厚いケアを必要としているにもかかわらず、だ。

人間が育っていくためには、誰か特定の人と愛着関係を結び、「ああ、自分はこの人から存在を望まれているんだ」という確信を得ることが必要不可欠だ。そうしてこそ、僕たちは世界が自分たちを受け入れていると信じることができるし、生きる希望も努力する元気も湧いてくる。しかし、今の児童養護施設の現状では、そういった愛着関係をケア職員と子どもが結ぶのは非常に難しい(無理とはいわないけれど)。

それで職員もヘトヘトになり、燃え尽き症候群(バーンナウト)になる職員は後を絶たない。突然出勤できなくなり、退職する職員は多くの施設で毎年のように出てくる。結果として、児童養護施設の職員の勤続年数は長くない。本当にケア職員が親代わりになるのであれば、子どもが施設を出て行った後も、施設に戻れば顔なじみの職員がいるべきなのだが、現状はそこから遠い場所にある。

この退職率の高さ、勤務環境の厳しさを背景にして、今は児童養護施設内では、「職員にきちんとした労働環境を準備してこそ子どものケアができる」という派と、「現状の配置基準で職員の労働環境なんかを気にしていたら、子どものケアなんてできっこない」という派で、意見対立が起きている。 


そもそも国から出るお金が少なすぎる

ただ、この児童養護施設内の意見対立は、そもそも国から十分な資金が子ども向けに払われていたら生じないのではないかと個人的には思う。

次の図は、日本の子ども・家族向け支出と高齢者向け支出のGDP比を1とした時の、各国の支出の国際比較だ(各国の年齢構成の違いも調整している)。日本の子ども・家族向け支出はGDPの0.7%であり、これは国際的には非常に低い。比較対象としたいわゆる先進国の中では、韓国、アメリカに次いで低い数字だ。なお、高齢者向け支出は8%で、これは他国と比べても一般的な水準だ。要は、この国は年金のみならず、公的支出においても高齢者に優しく、子どもやそれを養う家族に厳しい国だということだ。

社会的養護の直面する問題のそもそもの背景にあった子どもの貧困率は、国がその対策にどれくらいのお金を割くかによって明確に異なってくるようだ(下図)。そして、日本の教育向け支出・家族向け支出は国際的に少なすぎると言って差し支えないだろう。

この期間、アドボカシー活動をしていると、多くの人から、「この国にはそんなに子どもにつける予算は無いのだから、限られた予算の中からどうやって賢く意味のある支出を行っていくのかを考えるべきである」という意見が返ってくる。

確かに、難易度も低くかつ「廉価」で、ある程度の効果が生まれる打ち手は存在する。例えば、里親を増やし施設の統廃合を行っていくこと、一軒家の賃貸などによる養育環境を提供していくことなどは、多少時間がかかっても是非に進めていくべきだと思う。

一方で、課題を深層まで分析することで見えてくるのは、この国の格差の広がり、経済の停滞、子どもらへの所得再配分の少なさ等のより根本的な問題だ。こうした本質的な問題については、本気でリソースを割かないと解決できないケースが大半だ。

特にいま、社会的養護においては、各要素が複合的に負の連鎖をつくっている状況にある。企業のターンアラウンドの時も全くそうなのだけど、負の連鎖は、リーダーが「よく考えられた力技」で押し切らないと解消されない。

「どんな家庭に生まれた子どもに対しても、社会が一般家庭に見劣りしない養育環境を用意すること」に対する本気度が問われているのではないだろうか、と僕は思う。

それで、Living in Peaceができることとしては何をしているのか、ということについては、ここで記事を書くと焦点がブレるので、また記事を改めて紹介したい。

リンク:月1,000円からの寄付で、子どもの状況を変えることができる仕組み



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