放棄

日本からずっと西で、キリストが生まれるよりも100年以上前に起きた出来事です。

その地域にはネメスポリスという国がありました。住んでいる人々は皆、浅黒い顔に頭巾をつけています。この頭巾の色は、その人達の地位を表すものともなっていました。王族は紫色の頭巾、貴族は赤色、平民は白、そして奴隷は黒というように。

シェンは、このメネスポリスの歴史の中でも最も人望の厚い王子でした。王子としての地位に加え、美貌、さらには力強い演説の能力を備えたシェン王子は国民からの人気も高く、神の子と呼ばれていました。多くの人びとが、数多くの王子たちのなかで、間違いなくシェン王子が次の王になるだろうと噂をしました。国中の商人や政治家、軍人のうち、ある程度の地位にある人たちは、みなシェン王子と仲良くなろうと躍起になっていました。シェン王子は取り巻きたちに心を許すことは決してありませんでしたが、それらの人々をうまく利用しながら、自分の地位を固めていきました。

そんな華やかなシェン王子について、ある噂が流れていました。この噂はあまりにも不穏なものだったので、大抵の人は公の場で話したがりませんでした。

それでも、人の口には蓋が出来ないものです。「シェン王子が若い娘たちを殺しているらしい」という噂は、ひっそりと、でも確実にメネスポリス中を駆け巡っていました。シェン王子の華やかなイメージからは到底想像がつかない暗い噂であるだけに、その噂は人々の心を捉えて離さないのでした。中には半狂乱になって広場でこの噂を触れ回る人がいましたが、そういった人は数日後にはメネスポリスから見かけなくなりました。そういう人がいなくなると、国民の多くはこの噂が質の悪い冗談であろうと結論付けるようになりました。声の多さや大きさは、かようにも人心に影響を与えるものです。

そんななか、この噂を固く信じている人がいました。アレスです。アレスはもともと奴隷でしたが、ワニに襲われていた主人を救った功績が認められ平民に格上げされ、軍隊に入った後も一生懸命に働き続け、今年の春にはエリートしか入ることが許されない近衛兵となりました。

アレスのこれまでの人生は、生まれた境遇を憎む多くの人、奴隷や苦しい生活を送る平民たちの希望でした。多くの人が、10年後にアレスがメネスポリスの将軍になることを望んでいました。彼は武勇に秀でるのみならず、読書と思索を愛する人物だったからです。

そんなアレスには二人の幼なじみがいました。ミネアとシナスという美しい女性で、二人とも才芸にも優れていました。

アレスは、シェン王子こそが二人の人生を狂わせたのだと確信していました。なぜなら、シェン王子のいる王宮に呼ばれる前に、ミネアとシナスはそれぞれ 、アレスに色んな話をしていたからです。シェン王子との関わりについて口外することは固く禁じられているのですが、二人は幼馴染であり口の固いアレスだけには秘密を打ち明けたのです。

シェン王子の手口はいつも同じでした。彼はメネスポリスを回りながら、美しくて聡明な女性を見つけては、使いの者を通じて手紙を出しました。その手紙の内容は、ミネア宛のものもシナス宛のものもほとんど同じでした。

「私はあなたをずっと見ていて、あなたのことが気になっていた。ぜひあなたと二人きりで話がしたいから、私のいる王宮に来てくれないか」

この国の王になることがほぼ確実視されているシェン王子からこう声がけをされると、ほとんどの女性は参ってしまうようです。シェン王子が同時期に何人もの女性に同じことをしていることは、完全な秘密にされていました。彼ほどの力があれば、秘密を秘密のままにするのは容易なことでした。アレスは、ミネアとシナスから聞いた話と、近衛兵としての自分の立場から事情を理解している唯一の人間だったのです。

王宮に行った女性たちは、瞬くまにシェン王子の虜となってしまいました。そして、ある日突然にシェン王子から捨てられて王宮から追い出される日が来るのですが、その後の彼女たちには生気が全くなく、まるで魂の抜け殻のようになっているのです。まるで人生の全てを、彼と過ごした数ヶ月から数年の間に燃やし尽くしてしまったかのようでした。

3年前の春に変わり果ててしまったミネアに会ったときも、去年の冬に目の虚ろなシナスに会ったときも、アレスは力の限りを尽くして、シェン王子のことなんか忘れて、幸せに暮らすことを考えたらいいと説得しました。でも、何か強力な呪いのかかってしまっているかのように、ミネアもシナスもアレスの話を聞くと逆上してしまうのでした。「シェン王子は私のことを一番大切に思っているの!だけど国のためには私と離れ離れにならざるを得なかったのよ。彼だって辛いの。あなたに何がわかるの!」と、彼女らは半狂乱になりました。

一度は、ミネアとシナスを引きあわせて、シェン王子がたった一人の女性を大切にするような男ではないことを伝えようと思ったこともあります。ですが、そのようなことをして何になるのでしょう。場合によっては、二人とももっと深く傷つき、死んでしまうかもしれません。

アレスは無力でした。もはや何を言っても無駄と悟った彼は、幼馴染たちが自らの心に残った傷跡を愛おしそうになぞるときに、側にいてあげられるようにだけ努めました。非番の日には、川辺で一日中シェン王子との「美しい思い出話」を聞かされることもありました。

そもそも、シェン王子の王宮に行ってしまった時点で全てが終わりだったのです。ミネアに起こったことを既に知っていたアレスは、シナスが王宮に行こうと目を輝かせていたとき、全力で止めることも出来たはずなのでした。嫌われても良いので、力ずくで止めていれば良かったと、アレスは後悔していました。

アレスが幼馴染に心を尽くして寄り添っても、二人の喪失感を埋めることはできませんでした。彼が王宮の近衛兵になった頃、ミネアは首を吊り、シナスは川に身を投じてその一生を終えました。残された遺書にはシェン王子への想いと絶対的な信頼が書き尽くされ、「世が世であれば私はあなたの妃でありました。来世で巡りあえますよう。」という言葉で結ばれていました。

これは、シェン王子の王宮に呼ばれたほぼ全ての女性たちに起きたことでした。王子が若い娘たちを殺しているという噂が立った理由もここにありました。実際に、彼女らの自殺は実は他殺で、シェン王子の取り巻きたちが口封じのために行っているのではないかという話もまことしやかにされていました。

アレスはシェン王子を静かに深く恨んでいました。第一の理由はもちろん、自分の幼なじみであるミネアとシナスの人生をめちゃくちゃにしたからです。シェン王子と出会っていなければ、ミネアもシナスも幸せな一生を送ることができたことでしょう。アレスは彼女たちが幸せな結婚式を挙げて、そこで友人代表として話をできる日を小さな頃から楽しみにしていたのです。

ですが、いつも冷静なアレスは、もう一つの理由はおそらく嫉妬から来ているものかもしれないと自己分析をしていました。奴隷の身分に生まれてからここまで這い上がってきたアレスには、生まれたときから全てが約束され、どのような無体なことをしてもその地位が一向に揺らがないシェン王子が妬ましかったのです。シェン王子のまとっている紫の頭巾は、アレスにとってどれだけ眩しく見えたことでしょう。

一方で、アレスはシェン王子を認めてもいました。凡庸な人が多い王宮の中で、ネメスポリスを新しく生まれ変わらせようとしているシェン王子は飛び抜けた存在でした。また、シェン王子は自分の達成したい目標のためには、愚直な努力を続けられる人でもありました。民主制をとっているネメスポリスを変えていくためには、王とはいえ民意を無視するわけにもいかないということもあり、シェン王子は可能な限り多くの国民の顔と名前を覚えることに努めました。小さな国ということもあり、シェン王子はこの国のほぼ全ての町と村を訪問し、町長や村長をはじめとした多くの人の名前を覚え、彼ら彼女らをシェン王子の絶対の支持者にしていきました。これだけの愚直な努力は、他の王子には全くできないことでもありました。

アレスのシェン王子に対する思いには、憎しみと尊敬が入り混じっていたのです。ミネアとシナスの一件がなければ、将来に将軍となったアレスは、シェン王子とこの上なく美しい主従関係を結んでいたかもしれません。

しかし、人間の人生においてそのような仮定は無意味なのかもしれません。アレスはこの人をこの国から取り除かなければならないと固く決意していました。


新月の夜。アレスがシェン王子の寝室の護衛に立つ日でした。辺りは真っ暗な闇で、星だけが夜空を照らしています。アレスにとっては千載一遇の好機でした。

シェン王子の寝室に入り、アレスが刀を抜いたときでした。

「アレスよ、何が望みだ?」

シェン王子の声でした。元から死を覚悟している人間特有の低い声でした。覚悟はアレスもしていたことでした。シェン王子を殺したところで、自分が生きて王宮から出られる確率は万に一つもありません。

「あなたは私の幼馴染の二人を殺しました。あなたを殺したところで二人が返ってくる訳もないのですが、私はあなたを許すわけにはいきません」

「君はめでたいな。あの娘たちを殺したのは私だと思っているのか」

「あなたは彼女たちの魂を殺しました。人は魂を殺されたまま生きていくことはできません」

「それがめでたいと言っているんだ。私は何もしていないんだよ」と、シェン王子は話を続けます。

「君は私が彼女たちに何か特別な魔法をかけたとでも思っているんだろう。全く見当違いだ。私が彼女たちにしたことはたった一つだよ。」

シェン王子は手元にあった鈴を弄びながら話しました。鈴はリンリンと高く透明な音を鳴らしました。

「私は彼女たちにこう聞いただけだ。『君は君の全てを私とこの王国に捧げてくれるか』、とね。」

アレスの剣がすぐそこにあることをまるで意に介さないかのように、王子は続けました。

「我が王族に伝わる唯一の力でね、相手がもしも「はい、捧げます」と答えたのなら、その人を虜にすることができるのだ。虜となった人間たちは、私のために生き、私のために死ぬことになる。言うなれば、女王蟻に徹底的に尽くす蟻たちみたいなものだな。
 思考を止め、自由から逃れ、魂を放棄したのは彼女たち自身なのだよ。そんな人間はどうせ自分たちの足でこの世知辛い社会を生きていくことが出来ないのだし、もとから死んだまま人生を歩いているようなものだ。彼女たちの最後をきちんと看取るぶん、私は十分な責任を果たしているつもりでいるのだがね。
 私にこの誓いをしたのは女性たちだけではないよ。私に寄ってきた金持ちや政治家たちは皆そうだ。私の虜はこの国中にいる。自らの足で人生を背負って歩くことを放棄した哀れな人々だ。」

「でも、あなたはそんな問いを発さないでも良いではありませんか。すでに王族としての生活が完全に保証されているし、あなたは国民にも人気があり、数年後には確実に王になります」

「これは私の宿痾なのだよ。心のどこかがどうしようもなく壊れているんだ。
 陰謀と嫉妬の渦巻く王宮で育った私には、人を愛する方法なんて分からないし、心というものも分からないんだよ。あるのは権謀術数と弁論術くらいのものだ。奴隷上がりとはいえ、精一杯の愛情で子を育てた両親がいる君が羨ましいよ。
 自分で言うのもなんだが、私ほどに惨めな人間はいないと思うよ。無謬の絶対者を望む国民によって玉座に登らされる私は、いつか自分がしてきたことが怖くなり、殺されはしないかという恐怖に怯えながら民草を殺し続けることになるのだろう。王になるべきでない人間が王になることほど不幸なことはないのかもしれないね。器に収まらないものを任された彼は、必ず暴虐の限りを尽くすようになる。
 だから、君が私を殺したいと思うのであれば、いますぐそうすればいい。私はお蔭でこの人生という呪縛から解放されるのだからね。ただ、私を殺したとしても、この力を持つ王族の誰かが、また民衆に押し上げられ暴君になるのは火を見るより明らかだがね。」

そう言って、またシェン王子は寝具の上で横になりました。死を完全に覚悟した穏やかな顔です。

諦観じみた思いを胸にアレスが剣を置いたとき、彼は背後から静かに迫ってきていた兵士たちからメッタ刺しにされてしまいました。ほんの一握りの人にしか存在が知られていない秘密の兵士たちです。

事切れたアレスの頭を踏みつけ、手に持っていた鈴をリンリンと鳴らしながら、シェン王子は言いました。

「随分と遅かったじゃないか。私の弁舌の才が無かったら危ないところだったな。この反逆者をさらし首にしたあと、国外に埋めたまえ」

アレスが大逆を犯したという布告がなされた後には、誰もアレスを擁護しようとはしませんでした。アレスを尊敬していると話していた人々も、まるでアレスを知らなかったかのように振る舞い、王宮前の広場でさらし首となった彼に石を投げつけました。アレスの両親も、暴徒となった人々によって殴り殺されました。

国の外に墓標もないまま埋められたアレスの墓を訪れる人は一人もいませんでした。ただ一人、シェン王子を除いては。王子は盛り上がった土を前にして密かに涙を流し、その場を去りました。

メネスポリスが滅びたのは、それから27年後のことでした。民衆は、打首にされたシェン王を前に「この僭主め!」とわめきちらしながら、アレスに投げつけたものと同じ石を投げつけました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?