朝日新聞叩きで紙メディア全体の信用が失われている

まず、誤報は大変に大きな問題だし、それは「ちゃんとしている」ことが大前提となっている紙のメディアにおいてはあってはならないとされる事態だとは思う。その上で、いくつか感じること。

誤報は一定確率で起きる。この誤報が起きるメカニズムについては、岩波新書の「誤報」を読むと参考になる。誤報は、新聞社の間に存在している競争心や、相手に先んじられてはならぬ、といった心理から生まれる(他紙に先んじられて報道されることを「一敗」とカウントするらしい。今もそうかは分からないが)。外交に及ぼした影響という点において、問題の影響は測りしれないが、逆にいうと、それだけ影響力を及ぼすことが見えていた記事だからこそ、基本的な確認を怠る誘惑が強く働いたのだろう。

一方で、その後の朝日叩きを見ていると、これはマズいと思う。いま起こっていることは、個々のメディアが自分の小さな利益を得るために、公共の財産を食いつぶしている、ということを、どれほどの人が自覚的なんだろうか。

朝日を叩いているメディアのうち、結構な数が、(おそらく当の朝日よりも)トンデモ記事をより多く日々量産している。起こっている事態を100歩くらい離れて遠くから見ると、「目くそ鼻くそを笑う」を壮大なスケールで行っているわけで、結果として読者の目に明らかになるのは、「紙メディアってどこも信用できないんだね」ということだ。

この、メディア全体への信用の失墜が、どれだけ重大な事態なのかに気付いていない人が多い気がする。どういうことか書いてみよう。

ある情報が本当に正しいかどうかを確かめるコストは相当に大きい。情報の閲覧者はそんなコストを払うわけにはいかない(いちいち読者が新聞記事の裏取りをしてたら大変なことになる)。だからこそ、情報発信者に信用があることは、社会全体の情報獲得コストを大きく引き下げている。言い換えると、メディアに信用がある、そのメディアが「ちゃんとしている」、と思われることは社会において非常に重要な公共資産なわけだ。

いま、「人の振り見て我が振り直せ」でなく、他人を叩くことによって、自らの問題点をも露呈させ続けているメディアの方々は、それが長期的には自分たちのクビを締めている、ということを考えたほうがいいと僕は思う(FacebookやTwitterで書きたい放題書いているメディア人たちも含め)。もちろん、人それぞれ、自分が思うことを説くべきだろうけれど、僕には、今の朝日叩きはメディア間の競争心・敵愾心・火事場泥棒根性によって必要以上に加熱しているように思う。

メディアの信用を公共財とみなせば、今起こっていることはゲーム理論の教科書的な事例と整理できるだろう。そして、理論が示すように、おそらく、僕が何か書いたところで何が変わるわけでもないのも、よく分かっている。それでも、書かずにはいられないものって、あるよね。


追記:2014/09/18 午後3時43分
これだけのマグニチュードがある誤報を打ったことへの批判と原因追求は当然するべきです。ですが、今の叩きっぷりが異常に加熱してて、かつ色んな魂胆が透けて見えるように思え、結果メディア全体あまり信用ならないように見える、というのが100歩ぐらい離れたところから眺めている人の感想ということです。


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