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栗城さん

栗城さんが亡くなったという報せをミャンマーで聞いて、昨日の午後から呆然としている。仕事はしているのだけど、諸々手に付かないというか。

前に栗城さんとは対談させてもらったことがある。改めて4年経って読み返してみるとかなり考えさせられる内容だった。結局この対談の最後でお話をした飲み会は実現しなかったけど、イベントなどで顔を合わせたらちょっと立ち話をするくらいの間柄だった。

その後僕は飛行機の中で見た映画「アンナプルナ南壁 7,400mの男たち」にとても感動して、人生でやりたいことの一つが錚々たる登山家たちが挑んで死亡率40%を超えるアンナプルナに登ることになった。

目標ができると詳しくなる。登山についての知識も増えた。

なので、栗城さんがやろうとしていることは普通に考えると無謀だということも気付くようになっていった。とはいえ、毎年の登山のためにあれだけのお金を集めていくのは並大抵のことではない。彼はとても強い力の言葉を操ることが出来る人だったと思う。そして、僕との対談でも彼は自分の職業が登山家とは言わなかった。

いくつか書きたいことがある。正確に言うと、書くことで整理したいというか。言葉にすることというのは、頭の中で決着をある程度つけることでもあって、それにはまだ早すぎるんだけど、それでもこうしないことには、なんか僕は前に進めそうにない。


まずは応援することについて。

「ランニング思考」にも書いたのだけど、僕は前々から応援はリスクを背負う行為だと思っている。ある人に「頑張れ、君なら出来るよ」と言うことによって、その人は確かに頑張ることができる。応援は元々の実力だと20%とかしかない成功確率を25%くらいに上げる場合がある。だけど一方で、応援される人たちは、応援者の前で無様な姿は見せたくないので引くに引けない状態になってしまい、死んでしまうことだってありえるかもしれない。

いうなれば、応援対象が夢を達成できる確率を若干上げることと引き換えに、失敗(負ける、死ぬ、など)に伴う心理的なリスクや評判リスクを一緒に引き受ける、というのが応援の構造だと思っている。人格をコミットする行為とでも言うのだろうか。無責任な人々はそこまで深く考えていないのだろうけど、僕はこの点については相応に深く自覚して生活している。

だから、僕は栗城さんに「頑張れ」とか「あなたなら出来る」とかは言うことはできなかった(改めてSNSを見たけどやっぱりなかった)。特に先に紹介した映画を見て、山の厳しさを知った後には。


もう一つは友人への忠告について。

友人が誤ったことをしていると思ったときや危ういなと思ったときに、その友人が自分を見つめる機会を与えるのは、友人としての責務だと僕は思っている。僕は、身近な友人に対しては、彼や彼女のやっている事が正しくないと思ったら率直に話すか気付く手伝いをする。友人に好かれるために友人付き合いをしているわけではなく、その人が好きで仲良くしているのだから、友人がうまくいく確率を高める努力は当然にするべきじゃないだろうか。

とはいえ、仲のいい友人相手でも忠告するのは難しい。相手の性格や置かれている状況を考慮しつつ、間合いとかタイミングとか話し方とか色々なものに気をつける必要がある。特に辛い状況にある人は心理的なガードが上がっているので、直言はなかなか届かない場合も多い。友人が自力で気付くのが最善なので、そうなりやすい環境設定をするだけで終わることだってある。

僕と栗城さんの関係はそんなに近くはならなかった。それでも僕にもう少し力があれば(包容力とか伝える力とか)、ちょっとお茶にでも誘ってそれとなく何か意味のあることが言えたのかもしれない。人生長いんだから、肩の力を抜いて自然体で続ければ目標達成も出来るんじゃなかな、みたいな。「ごめんなさい」が言えるだけで人生はものすごく楽になる。

 

こんなに悲しさと後味の悪さが残るのはなぜなのだろう。自分に何かしらのことができたはずなのに出来なかった自責のためだろうか。

ものすごく長い時間を一緒に過ごした訳ではないけど、僕の知っている栗城さんは、完全な聖人でも完全な俗物でもなく、そこらへんにいる普通のお兄さんだった。彼に近い人たちから話を聞くにつけ、そういう思いを強くする。そして、普通の人間である彼の言葉によって救われた人たち、前に一歩踏み出すことができた人たちがいる。

エベレスト登頂における無謀なルート選択や不透明な説明も事実であれば、彼の存在によって苦境を脱することがいた人たちも存在することも事実だった。そういうちぐはぐなところや不足しているところも含めて、彼は愛すべき人だった。

彼が今はもう世界に存在しないということが、今はただただ悲しい。


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