人権の終焉のはじまり

最近は人権というコンセプト、すなわち、「すべての人が人であるがゆえに不可侵の権利をもっている」というアイデアが岐路に立たされているなと感じている。

機械が人間の肉体労働を代替しはじめてから時間がかなり経つけれども、最近では人間の知的労働の代替もはじまった。これから時間が経つにつれ、人類の生産活動に必要になる人間労働はどんどん減っていくんだろう。

加えて、現状においては機械という身体の外にある装置の進歩が著しいけど、今後は生命科学の領域で大きな変化がやってくる。記憶力を高めたり、視力をよくしたり、身体能力を高めたり、短時間睡眠でも平気になったり、というふうに自分を改造できるようになる。そのタイミングでお金がある人々とそうでない人々の格差はさらに開いていく。

人権というのは社会を制御するための一つのアイデアだった。すべての人に普遍的な人権があるという思想が必要だったのは、工場での大量生産が拡大する過程で、多くの労働力が必要だったからだ(ペストによる人口減少も労働力の希少化に一役買っている)。「我々は皆社会にとって必要な人間なのである」というメッセージを伝え、義務教育が進み、社会は大量の労働力を手に入れられるようになった。

社会における常識というのは結構曖昧な概念で、大抵の場合においては経済活動における仕組みが変わると、常識も変わっていく。全員参加型の社会において人権は望ましい概念だったけれども、多くの人間労働が必要とされない社会においてもそうなのだろうか、というとそれはかなり怪しいなと思う。

実際に、現時点でも、賢い人々≒お金のある人々の一部は、簡単に扇動される「無知な大衆」を見ていて、民主主義の限界を議論しはじめている。身近なところでいえば、ナビを使えないタクシー運転手にキレる人も多い。ベーシックインカムからも似たようなものを僕は感じている。

知的階層と非知的階層の断絶や相互非共感は日に日に大きくなっている気がしているけど、機械の活用や自己身体の改造が更に進むなか、持つ側の人々が持たざる側の人々に対して家畜に対する程度の共感しか持たなくなったとき、新しい社会がやってくるんだと思う。

旧世界で育った僕はそういう社会には住みたくないけれども、政治の介入がないと、きっとその日がくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?