こども宅食について

駒崎さんが新しい取り組みを始めた。「こども宅食」として、経済的に厳しい状況にある子どもたちがいる家庭に食品を届ける事業。僕はこの事業をする他ないと思っているものの、なんとなく心にひっかりがあり、なかなか自分の意見を表明できずにいた。でも、何か書いたほうが良さそうなので、とりあえず書いてみる。

 

僕は児相職員や行政の家庭支援課の人々、その職員らが日々関わっている大人たち(この人たちの子どもが社会的養護に入る可能性は結構高い)、行政の介入を受けていた家庭に当時いた子どもたちに会って話をしてきた。足を使って得てきた情報は結構多いほうだと思っている。

そこで感じるのは、支援する側と支援される側のすれ違いだ。

支援する側はとても善意にあふれているのだけれど、支援を受ける側には若干の後ろめたさというか罪悪感のようなものを抱いている人が一定数いるように思う。例えば「ルポ児童相談所」でも書いたけど、児相が問題ある家庭を訪問するということが知られているために、児相の訪問を受けるお母さんは、「自分が虐待親だと思われている」という気持ちに苛まれて追い込まれていく、という構図がある。

この「困っていることの汚名化」は本当に難しい問題で、日本の貧困支援を難しいものにしている一因だと思っている。多くの人が自分が困っていると人に伝えることができない。他人に伝えると、近所からは眉をひそめられて、地元のコミュニティから孤立することになる。ロンドンではよくホームレスと一般の人が楽しそうに話しているけど、日本ではそんなことは一切見かけない。

「こども宅食」が本当に困っている家庭に食品を届けると、それを見ていた周りの子どもたちが、その食品が届いている家庭の子どもに対して、「やーいビンボウニン」と囃し立てたり、近所の大人は「あそこのお家本当に困っているんですって」みたいな噂話を始めることだろう。これは本当に辛いことで、僕だったら耐えられないかもしれない。でも一方でそういった支援をしないと、SOSの声を上げられないまま死んでいく人たちがいるのも事実だ。

こうして僕は、一部の人々に対する支援の急迫性と、支援される側全体が被るかもしれないスティグマの二つの間で立ちすくんできた。

だから僕は今も「こども宅食」について確定的な自分の見解を示すことができていない。それによって奪われるかもしれない大勢の子どもたちの尊厳と、実際に救われる少ない命のどちらが重たいのか、答えがでないからだ。

それでも言えることは、行動をしてみないと分からないことが多いわけで、このプロジェクトの振り返りは、日本という支援対象がスティグマ化されやすい国における貧困対策においてとても大きな意義を持つのだろう。

うまくいっているコミュニティでは、コミュニティがこの二項対立を乗り越えてきた。そこで活躍していたのは、地元の顔役となっているようなおせっかい焼きの人々だ。この人達が、いやらしくない態度で困っている人々を支援している地域では、問題が見える化され、子どもらが必要な支援を受けられていることが多い。僕が見た中でよくできている地域の一つは釜ヶ崎、もう一つは平塚だった。そういった支援活動のデザインをどうするのかが、この分野においては特に重要性を高めていくのだと思っている。

そして「そんな難しい支援デザインを誰に任せるの」と聞かれたら駒崎さんをおいて他にはいないと思っている。このプロジェクトが今緊急の問題に直面している子どもを救いつつ、多くの子どもの尊厳を守り続けるものになりますように。

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