友だちに冗談で「なにか物語を聞かせてよ」とお願いしたら、こんな話をしてくれた。見た感じ至って心身ともに正常な感じがする彼から、こんな物語が紡がれるとは思わなかった。

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もう昭和も60年を過ぎた頃のことでした。東京の西側に、40代を過ぎた中年夫婦が住んでいました。

生活は全て満ち足りていました。夫は若くして一流商社の役員候補でした。立派な一軒家に住み、特別な用事がない限り、夕食はいつも二人でしました。夏と冬には必ず休暇を取り、旅行へいきました。そんな生活を、二人は大学で出会って結婚してから20年間も続けてきたのです。同じような日々の繰り返しの中で幸せを噛みしめることにこそ、本当に満ち足りた生活があることを分かっていたのです。

そんな二人に、無いものが一つだけありました。子どもです。子どもがいなかったのは、二人が敬虔な宗教家だったからではありません。どれだけ努力をしても、ついぞ授かることができなかったのです。

二人は毎週日曜日に欠かさずしていたお祈りで、いつも神様にお願いをしてきました。

「神様、私たちに子どもをください。もし子どもができたら、その子がどういう子に育っても、全てを捧げるつもりです」と。

でも、神様はいつも沈黙したままでした。二人は、いつも神様は黙っているもので、その沈黙の中から答えを探すのが信仰なのだと信じていました。

夫が急な交通事故で亡くなってしまったその週の日曜日も、マリコさんは祈りを捧げました。「神様、子どもをくださいとばかりお願いをしてきた私が馬鹿でした。あの人の幸せと健康を真っ先に祈るべきだったのに」

祈りを終えた後、マリコさんはいつも通り家路につきました。いままでずっと夫とともに歩いてきた道です。毎日同じ生活をしている人が大切な人を失うと、日常生活が少しずつ確実に心に傷をつけていきます。

家の玄関の前にはダンボールが置いてありました。「いつもの宅配便屋さんが、面倒だから家の前に置いていったのかしら」と思いましたが、どうも変だということにはすぐに気が付きました。そのダンボールには伝票がついていないのです。

ダンボールを開けてみると、そこには生まれたばかりの赤ちゃんが入っていました。赤ん坊なのにもう歯が生えていて、マリコさんがその歯を確かめようと手を伸ばしたら、キツく噛まれて、血が出てきました。

ダンボール箱の奥には書き置きがありました。マリコさんはそれを手に取りました。

「私がこの子どもを身ごもったことを知ったときには、もうお腹は大きくて中絶することはできない状態でした。事情は申し上げられませんが、私にはどうしてもこの子どもを育てることができないのです。この子が生まれたときに、私はそれを確信してしまいました。
 あなたたち夫婦の生活ぶりをいつも私は見ていました。あなたたちは、全ての人に対して公平に愛情を持って接する人でした。あなたになら、この子を育てられるのではないかと思います。後生ですから、この子が大きくなるまで育ててあげてください」

マリコさんは、この子を授かったのは神様の意志なのだと信じました。おそらく、経済的な理由か何かなのでしょう、子どもを育てられないと思ったこの生みの親に変わってこの子どもを育てるのは、自分の義務なのだと感じました。そうであれば、毎日の祈りに対する神様の沈黙も、夫が亡くなってすぐにこの子が彼女の前に現れたことも、すべて合点がいきました。

実家に帰ったことにして、1年間家を留守にしたあとに東京の家に戻り、周りの人には、主人が亡くなる前に身ごもった子どもが9ヶ月前に生まれたと嘘をつきました。

マリコさんは、赤ちゃんにメグミという名前をつけました。女の子ができたらその名前をつけると主人と決めていたのです。子どもは神の恵みであると。

メグミはすくすくと育っていきました。生みの親は俳優か何かだったのでしょうか、子どもの時から、とても整った人形のような顔立ちをしていました。

マリコさんには十分な財産が残されていたので、メグミにとって必要だと思ったものにはきちんとお金を使いました。とはいえ、派手な暮らしをしたという訳では決してなく、夫といたときと同じように、必要なものについては、質のよくて上品なものを買うということを繰り返していただけです。例えば、すぐ小さくなってしまう服にはお金をかけないで、6年間ずっと使い続けるランドセルはとても上等なものを買う、ピアノのレッスンはちょっとお金がかかってもきちんとした先生にお願いする、といった具合です。

全てが完璧かのように思えたのですが、一つだけ不思議なことがありました。メグミの歯です。

子どものときから、メグミには歯が生えそろっていました。小学校1年生になった今や、その歯は大人顔負けの立派なものになっていました。噛む力も相当なもので、マリコさんはかなり頻繁にメグミの使っている箸やスプーンを変えないといけませんでした。最初はとても高価なカトラリーを買い、買い換える度にメグミに食べ方を教えていましたが、今や諦め、1本100円のものを買うようになっていました。

メグミは悲しいことがあったり怒ったりすると、よく何かを噛みました。カミキリムシのように、硬いものを噛みました。鉛筆などは日常茶飯事で、ご飯に出てくる鳥の骨も、場合によっては積み木を噛むようなことさえありました。歯は決して折れません。ボロボロになるのは噛まれるもののほうでした。

マリコさんはめぐみの歯と噛み癖が気にはなっていましたが、「まあ、無くて七癖なんだから」と自分を落ち着けていました。どんなことがあっても、この子を受け止めて、全てを捧げるという誓いが揺れることは全くありませんでした。

そんなある日のことでした。マリコさんがスーパーで夜ご飯の材料を買って家に帰ってくると、いないはずのメグミが家に帰ってきていました。リビングのソファにポツンと座っています。小さい子どもが見せるような分かりやすい落ち込み方ではなく、メグミの中で時間が止まっているかのような、そんな空虚な雰囲気を漂わせていました。小さな手を握りしめながら、膝の上に乗せています。

「どうしたの、メグミ?」

「わたし、化け物だって」

「誰がそんなこと言ったの!こんなにかわいいメグミが化け物なわけないじゃない」

「給食の時間が終わったあと、クラスのケンタロウが、私は親殺しの化け物の子どもだって。ママはその化け物を何も知らずに引き取った馬鹿なんだって」

長年住んでいた街でメグミを学校に通わせたのは誤算だったと、マリコさんは後悔しました。そうです。メグミの本当のお母さんはマリコを知っている人だったのですから、その本当のお母さんを知らない人がこの街にいないとは限らないのです。

それでも、可能な限り落ち着き払った素振りを見せるため、静かに深呼吸をした後に、いくぶん声を低くしてマリコさんは言いました。

「そんなことないじゃない。あなたは私の子だし、それに、あなたが化け物である証拠なんてどこにあるの」

「ここにある」

そういってメグミが握りしめていた手のひらを広げたとき、マリコさんは気絶しそうになりました。そこには、1センチメートルくらいの、小さな肉の塊がありました。握っていたメグミの手のひらは血で真っ赤になっています。

「ケンタロウに化け物だって言われた後はよく覚えてないの。気がついたらケンタロウが床を転げまわってて、私の口の中にはこの肉があったの。たぶん、私が噛んだの。
 ママは何も私に言わなかったけど、心が落ち着かないとき、なにかを噛まずにはいられないの。ちょっとした時であれば固いだけでもいいんだけど、本当につらいときは、生きているものじゃないといけないの。ナイショにしてたんだけど、猫や犬の足を食いちぎったこともあるの。でも、猫や犬じゃ本当は満足できなくて、今日ケンタロウを噛んだときに心の底から気持ちが落ち着いたの。そして、ああ、私は化物なんだって納得したの」

マリコさんはすっかりと気が動転してしまいました。 この子は本当に化物なのかもしれない、という思いが頭をかすめました。マリコさんの本当のお母さんがマリコを育てられないと思ったのは、このことを知ってのことかもしれない、とも思いました。というのも、マリコさんの住んでいる地域はとても裕福な人達が過ごしている場所なので、そのマリコさんを知っている人であれば、同じようにこの地域の住人である可能性が高く、それはすなわち経済的には余裕があるということだったからです。

普通に息をするのが、こんなに大変だとは思ったこともありませんでした。メグミの目を見ることもできませんでした。目を見たら、マリコさんの恐れはすぐにメグミに伝わってしまうことでしょう。目が不安げにキョロキョロと部屋のあたりを見渡します。

ふと、マリコさんの視線が亡くなった夫の写真に移ったときでした。彼女は昔夫と一緒に神様にしていた約束を思い出しました。

「もし子どもができたら、その子がどういう子に育っても、全てを捧げるつもりです」

信仰の力でマリコさんはまた元気を取り戻しました。感覚を失っていたような全身にまた血が通い始めるのを感じ取ることができました。そして、またいつも通りの声を取り戻して、メグミを抱きしめながらこう言いました。

「大丈夫。お母さんはどんなときでもメグミを受け止めるよ。お母さんはメグミのために生きているんだから。でも、どうしようもなく落ち込んだときには、それを友だちにでなくて、お母さんに向けてほしいの」

メグミとマリコさんは長年住んでいた街から、他の街に移りました。誰も二人のことを知らない街にです。

引っ越しは数年に一度は起きました。メグミが中学校に入ってクラスの女子からいじめにあったとき、大学生の頃に付き合っていた彼氏にひどい振られ方をしたとき、夫の親友の紹介で勤め始めた会社を突然に辞めてしまったとき。

引っ越しの度に、マリコさんの身体は変化していきました。最初は左足が義足になりました。次には左手が義手になり、いまや両手両足が義手と義足になってしまいました。マリコさんは新しく引っ越した街で、交通事故に遭って身体を失ってしまったのだと説明しました。周りの人たちは「それは大変でしたね」と言い、マリコさんとメグミに何かと気を遣ってくれました。

人里離れた集落に偶然あった空き家に辿りついたとき、もう、夫が残してくれた財産も尽きてしまいました。

マリコさんは親族とも関係を絶ってしまっています。というのも、親族の皆はうっすらと、マリコさんの身に起こっている異変に気づいていて、親族の集まりで会う度にこう話していたからです。

「あなた、あの子を養うより、もっとやることがあるんじゃないの?あんな大変そうな子に時間をかけて世の中はよくなるの?もっと多くの人にできることがあるでしょうよ」

そんな話をされる度に、マリコさんは「一人の子どもを変えられる人が、世界を変えるのよ。影響を与える深さの話を一切しないで、範囲の話しかしないのは大馬鹿者よ」と言い返しました。親族たちは、分かったような分からなかったような顔をして、それ以上深入りはしませんでした。でも、そんなことが続く度に、次第にマリコさんは親族とも疎遠になってしまったのです。

マリコさん自身も、自分は一体何をしているのだろうと考えることがありました。私は単にいいカッコがしたいがためにこんなことをしているのだろうかと思うこともありました。そんな思いが浮かぶ度に、マリコさんは自分の信仰の弱さを恥じました。子どもを育てるというのは、全てを捧げることであると自分に言い聞かせました。「私が祈りを捧げているあの人は、全ての人のために自分の命も名声も全部犠牲にしたのだから」と。今や、祈りは毎週ではなく、毎朝欠かさず捧げられるようになっていました。

人里離れた山の麓でマリコさんがこの世から消えてしまったときには、世界の誰もそのことに気が付きませんでした。誰にも讃えられず、顧みられることもない、孤独な死でした。

ただ一人の例外はメグミです。顔をマリコさんの血で真赤にしながら、メグミは泣き続けました。夏山を泣きながら歩き続けました。飲まず食わずで、1週間以上歩き続けたところで倒れこみました。

「もう死ぬしかないな。ママごめんなさい」、と思いました。「こんなことを言っても誰も信じてくれないと思うけど、私はママを心底尊敬して愛していたよ。もし生まれ変わったら、ママみたいな人になりたいな」と全く声にならない声を出したまま、気を失いました。

メグミが目を覚ましたのは病院のベッドの上でした。目を覚ましたメグミに看護師さんが話かけかます。

「ああ、よかった目が覚めて。あなたはあの山を流れる川岸に血まみれで流れ着いていたの。偶然そこを通りかかった登山家の人が見つけてくれなかったらどうなっていたことか。崖から滑り落ちていったみたいで、色んなところから血を流していて。でも、もう大丈夫だよ。骨もすぐくっつくし、2ヶ月もあれば元気になるわ」

「鏡、ありますか?」

「ああ、あるけど。。でも、今は見ないほうがいいかもしれない。元気になったら見ましょう」

「見せてください」

看護師さんの言うことを聞かず、ズキズキと痛む身体で洗面所まで這うように進み、鏡で自分の顔をみました。顔の血のりは綺麗に拭き取られていて、そこにはいつもどおりの美しいメグミの顔がありました。

異常に気がついたのは、口を開けたときです。あの忌まわしい歯がすっかりと無くなっていたのです。口のなかにあったのは、普通の人と同じような歯でした。形はボロボロになっていましたが。

「大丈夫よ」メグミが歯を見て驚いているのを見て、看護師さんが元気づけるように言いました。「いまの技術なら、そういうのも全部きれいに本物の歯みたいな義歯にすることができるから」。看護師さんが何も知らずに気楽なことを言ってくれるのを、メグミは有難いと思いました。

病院にいるうちに義歯も入れ終えたメグミは、退院後大学に入り直し、一生懸命に勉強しました。就職してからも、自分の一部になっているお母さんの分も人に尽くそうと、持てる力の全てを尽くして働き、仕事が終わった後には困っている人を可能な限り助けるために、いろんな活動をしました。

そんなメグミは地域の皆の人気者で、同じ町で働いている素敵な男性に求愛され、結婚しました。何不自由のない幸せな生活をしていた二人が子どもを授かったのは、結婚して3年目のことでした。

生まれた赤ちゃんには、見覚えのある、鋭い歯が生えそろっていました。

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