僕が尊敬するソーシャルセクター実務家の共通点

荘保さんのクラウドファンディング、残り11日になったので、最後のお願いの文章を考えていた。

こういうのって難しいな。「残り時間わずか!最後の寄付のお願いです!」と書いている文章を読みたい人は、世の中にあんまりいない気がしている。政治家さんらの「最後のお願いに参りました」という演説に近いというか。僕だけかもしれないけど。

そこで、荘保さんも含め、僕が尊敬するソーシャルセクター実務家の共通点というか、僕が学んだことをメモすることにした。

「支援」という言葉を使いたがらない

荘保さんをはじめ、僕が尊敬する人はみんな「子どもを支援する」と言わない。「寄り添う」とか「関わり続ける」とかいう言葉を使う。「救う」という言葉はほぼ使わない。ただ、プレゼンとかの場で「子どもに関わり続けています」と言うと誤解される可能性もあるので(パパ活ぽい・・・)、使わざるを得ない時はあるのだけど。

使わない理由は二つあるように思う。まずは、相手を他人とみなしていないこと。例えば、自分の子どもやきょうだいの面倒を見ることについて「弟を支援している」とか「我が子を救う」とは言わないと思う。子どもたちを自分にとって大切な人だと考えると、自然とそういう言葉が出なくなる。

次に、相手と自分の関係性が対等だと考えていること。綺麗事とかじゃなくて、少なくない数の人は、誰かの役に立ちたいという思いを持っていて、それができると満たされた気分になる。物質的な側面だけを見ると一方的な関係になるけど、精神的な満足も含めると、実はお互いに得るものを得ている。敬虔な宗教家であれば、人の役に立ったときに「神様の心を実現する機会を与えてもらって、ありがたい」と思うことだろう。

今回のクラウドファンディングだって、僕としては何らかの形で荘保さんの役に立つことができて、ただただ嬉しくて、荘保さんを支援しているという気分にはあまりなっていない。

全部差し出す準備ができている

相手にとって必要だということが分かれば、自分の持っているものを全部差し出す準備ができている。必要なら一文無しになっても気に留めない。荘保さんは自分の老後のためのお金を、釜ヶ崎から独立していこうとする女の子や母子のために使ってしまった。

普通に考えると単なる無鉄砲に見えるかもしれないけど、かなりラディカルな自己放棄は僕が尊敬する人々皆に共通していることだ(ガンジーとか西郷隆盛とかも)。個人が持っている財産を差し出したところで、直接的なインパクトが大きくならないことは多いのだけど、その姿を見た人たちは自分自身も何かせずにはいられないわけで、結果としてとても大きな変化が起きる。

小さな違いに目くじらを立てない

社会に関わる仕事においては、目標が同じでも、それを実現するための方法論が違う、ということがよくある。

僕が尊敬する人たちは、この違いについての許容度が大きい。理由は二つある気がしている。

第一に他人のやっていることに良い意味で関心がなく、自分の仕事を通じて何ができるのかに関心が割かれていること。自分たちの仕事に魂を込めていると、他人の仕事について批判的なコメントをする時間なんてない。

第二に、大きな違いを世の中に作ろうとしたら、大勢の人が一枚岩になる必要があり、同じ目標を共有できる人たちと喧嘩している場合ではない、ということが分かっているから。

例えば荘保さんは「子どもは地域で育つべき」という強い考えを持っているのだけど、だからといって他の実務家らを批判するようなことはしない。僕もむかし施設にランドセルを届けるタイガーマスク運動を強く批判していたのだけど、ちょっと自分が恥ずかしくなった。


半世紀釜ヶ崎にいた荘保さんのプロジェクトです。
皆さんもご一緒くださったらすごく嬉しいです!


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