見出し画像

防御壁を全く設けない言論について考えること

だいたい、僕は3ヶ月に1回くらいは軽くブログなり何らかのポストがバズる。先日でいえば、パリのテロがあって多くの人がフランス国旗を掲げたことに対して、「それって変じゃない?」という内容のことを書いたらバズりつつ少し炎上するようになった。

自意識を制御する訓練はしてきたはずなのだけど、実のところ、世の中に対してControversialなものや、自分がどうしても譲れないこと、また何らかの怒りが含まれた文章を書いたりするときには、とても心が落ち着かなくなる。ブログ本体や連携しているソーシャルメディアでの取り扱いを見るのがこわいので、心が落ち着くまではネットを切ってしまったりもする。精魂を込めて書いた本のレビューも恐いし、人生がかかったテストの結果とかについても、僕は中々それを確認できない方なのだと思う。

この恐れはどこから来るのだろうか。自分が実は間違っていることに対する恐れだったり、自分が誰かを傷つけたり嫌な思いをさせていることに対する恐れだったり、拒絶されることに対する恐れはあるのだと思う。でも、仕事を通じてそういったものには日常的に接しているはずなので、上記で書いたような状況においてのみ怖い気分になるのはなぜだろうと考えていた。

そして気づいたことがある。僕が譲れないことについて書く時や怒りを込めて何かを書く時においては、基本的に自分の心に何もまとったりせずに、生の心を差し出して話をしている。要は、精神的な防御壁とかを何も置かずに、思ったことを多少の反論や異論が想像されても書かざるをえないという気分で書いている。また、そのメッセージを受け取る相手にとっても、かなりキツイものになっているので、それを素直に受け止めるのはものすごく労力がかかることだったりする。

だから怖いのだと思う。色んなものをぶっこんでしまったので、もう後には引けない状態なのだ。

もっとうまいやり方、成熟したやり方はあるのだと思う。例えば部下に指摘をするときには、相手に対して、こちらの指摘を受け入れやすいような逃げ道を用意してあげたほうがよい。それと、特に重要な指摘をしないといけない場合には、相手と自分の意見形成のされ方や前提の違いを認識しながら話すために、なるべく対面、少なくとも電話で話をしたほうがいい(メールでのやり取りが大きな誤解を生みやすいのは、これができないからだと思う)。

また、指摘を受け取った相手が優しい気持ちになるように包み込んであげられるような、そんな度量の大きさが今の僕にないことも問題なのだと思う。僕の人間としての格がもう少し高くなれば、単に争いを避けるのが嫌だからという理由から当たり障りのない表現をするのではなくて、もっと雅量のある気持ちのいい物言いができるようになるんだと思う。ところで、王様たちの話しぶりは人の心をよく揺さぶるのは、こういった雅量というか超強烈な甲斐性が背景にあるからなのだろう。

もちろん、怒りのコントロールも必要だろう。短気は子どもの頃から本質的には改善しておらず、今もときどきカッとなってしまう。もういい大人なんだから、そういうのをきちんと抑制できるようになりたい。解脱していたらそんなこと簡単なのだろうけど。

一方で、相手に対して面と向かって直截的な物言いをするべき時というのはそれでも存在するんだと思う。そして、そんな時に生の心を差し出しても恐れを抱かないためには、自分が謙虚で素直になるための訓練を続ける他はないのだろう。批判に耳を完全に閉ざす精神的不感症には決してなりたくない。それはそれで、大切な何かを見失うことだから。

道は遠いなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?