マーガレット__2_

小説『オスカルな女たち』1

第 1 章 『 意 思 』・・・1


   《   織  瀬   》

樋渡織瀬:ひわたりおりせ(旧姓:七浦)  
やわらかい名前とその容姿、華奢な姿態から「オスカル」と呼ばれながらも男役ではなく娘役ポジションであったことは言うまでもない。それゆえ呼名されていたことに一番驚いたのは彼女だったかもしれない。
在学中は底抜けに明るく、いつも彼女の周りには笑い声が絶えず花開いていた。一見天然キャラとも伺える性格だが、その実とても用心深く慎重だったのには、少々訳ありな家庭環境にあったためである。
物心つく頃には既に父親の所在は知れず、小学生になる頃には母親が蒸発、以来母方の祖母とふたり暮らしという事情から、幼い頃にいじめの経験があり、人一倍気を使う性質であった。だがそんなうしろ暗い過去などは見た目に反映されず、いじられキャラとして『おてんばオスカル』と呼ばれていた。
意外にも努力家な面があり、将来のためと英会話や着付け教室、フラワーアレンジメントなど多種多様な習い事を経て短大を卒業後、念願のホテル業務に就くも訳あって3年で退社。その後はホテルでの経験を活かしてブライダル業に携わり、のちに〈ブライダルコンシェルジュ〉として働くことになる。
子どもなし。現在は夫とふたりマンション暮らしをしている。

「よって、よって…」
しばらく画面と睨めっこしたのち、スマートフォンを縦にしたり横にしたりしながらピントを合わせているバーテンダーをもどかしく思いながら、3人はカメラに向かって顔を作る。
「じゃ、いきますよ。…はい、チーズ」
愛想笑いをしながらもそっけないやりとり。
「ありがと~」
酔った勢いとはいえ、こちらも愛想笑いを返してスマートフォンを受け取る織瀬(おりせ)。実は少々このバーテンダーが苦手だったことを思い出した。
(いつも無表情で、なに考えてるか解んないんだよね)
そう、いつもなんとなく、見透かされているような気分に駆られるのだ。
「送ったよー」
そんな気持ちを払拭するかのようにLINEで右隣に並ぶふたりに写真を送信しながらも、冷めた感情が支配する。高校当時『おてんばオスカル』などと呼ばれていた自分が幻だったのかと思えるほど、今夜のように気の置けない友人たちと同窓会に出掛けて行っても、最近は以前のように心から楽しめない自分を憂いていた。
「今日のホテルの壁覚えてる?」
LINEを確認しながらつかさが思い出したようにつぶやいた。
「壁?」
「うん。高校の講堂のさ、舞台の上にあった学長先生〈専用〉の金箔の屏風みたいじゃなかった?」
言いながら左、右と大げさに首を振り、両隣の織瀬と真実(まこと)を交互に見る。
「学長のびょうぶぅ? そんなの覚えてないよ~」
眉間に皺をよせて答える真実は頬杖をついてこちらを見る。
「相変わらず記憶力いいな、学年TOPは」
「もう、まこちゃんは。いつまでもそういう呼び方するのやめてよ」
恥ずかしい…そう言って誤魔化すようにワイングラスを空けるつかさ。それを受けチラリとバーテンダーが目を配るが、つかさは「もういいわ」と右手だけで答える。
「事実だろうが」
「なん年経ってると思ってるの」
そんなふたりのやり取りを眺めながら「だからと言ってこの関係が憂鬱の原因ではない」と、楽しめない理由を心の中で言い訳して微笑む織瀬。
「あ~でも、なんとなく。覚えてるかも」
出掛けることも、こうして友人に会えることも、今の織瀬にとっては唯一の気晴らしだった。
「でしょ! あったよねぇ、やっぱり」
人差し指を立て「ほら~」と、真実に同意を求めるつかさ。そんな姿に、
(なにやってんだろ…女子高生でもあるまいし。こんな写真撮って)
織瀬は途端に自分の行動が恥ずかしくなった。
本当は写真なんかどうでもよかった。少しでも長い時間、彼女らとともにこうして笑いあっていたかったのだ。だが、自分より充実した毎日を送っているであろう友人の画像を見ながら、織瀬はため息をついた。せっかく出掛けてきても、一日の終わりはやって来るのだ。
今日のために新調した黒いエナメルの小さなトートバッグにスマートフォンを落とす。
「そろそろ帰ろうか…。真田くん、チェック」
中央に座るつかさはそう言ってバーテンダーに目配せする。バーテンダーの〈真田章悟(さなだしょうご)〉とつかさは、他のふたりよりも多少面識があった。それはつかさがまだ結婚前のこと、家庭の事情から夜のバイトをしていた頃からの付き合いになる。
「はい…」
真田の返事を遮るように、
「そうだな。明日、朝一番でオペが入ってんだ」
バーに来てからお酒の進まなかった真実(まこと)が、そう言って立ち上がった。
「そうなの? 言ってくれたらよかったのに」
もう少し…と言いたい気持ちを飲み込み、のけぞってつかさ越しに真実を窺う織瀬。
「気が進まないやつだから」
そう小さく答える真実。
「あぁ…」
その言葉のトーンでどんな手術かすぐに想像がついた。
真実は母親とふたり、小さな産婦人科医院を営んでいる。「気が進まない」そのひとことで、それが堕胎手術だと容易に理解できたのだ。
「大変だね」
クラッチバッグをつかみながらつかさが言った。
こんな時すぐに気の利いた言葉が出てこない織瀬は、いつもつかさに感心した。
(気が利くってこういうことかな)
なにか言わなきゃ…と思いながら、なにを言ったらいいのか適当な言葉も見つけられずに、結局言いそびれてしまうからだった。
「仕事だからな」
そう答える真実はいつも逞しく、自分の頼りない言葉なんか「必要ないだろう」と思わせた。
会計を済ませた頃、スマートフォンが小さく震えていることに気づく。もう真夜中を過ぎていた。
(こんな時間に誰?)
しかし、番号に覚えがない。
「旦那様?」
すぐ隣にいたつかさが返す。
「いや…どうだろ」
夫のはずはなかった。
(まさか…ね)
自分でさえ相手の候補に名が挙がらないほど、近頃夫からの電話などしばらく受けたことがない。
「違う。知らない番号…」
言いながら、思い直す。以前夫が「充電が切れた…」と同僚の携帯電話からかけてくることがあったからだ。
(出掛けてる…?)
今夜は家にいるはずの夫に、そんな予定あったかな…と思い起こしながら、電話に出ようと再び画面に指を近づける織瀬。だが、
「切れちゃった…」
「やめときな、こんな時間に掛かってくるような相手。ろくなもんじゃない」
スマートフォンを押さえ込むようにして真実に手を引かれる。
確かにそうだ。
「でも…」
気になる。
「じゃ、あたし駅だから」
店を出てすぐ、そう言って駅の方角を指さすつかさ。間もなく梅雨を迎えようとしている6月初旬の夜はノースリーブには肌寒い。薄手のショールを羽織りながら、まだまだ明るいネオンが連なる方へときびすを返し背を向けた。
「うん。またね。…あ、来週の水曜、よろしくね」
声を上げると、つかさは振り返らずに右手を高く振って去っていった。
「なに? 来週…?」
なんかあったっけ…と小さく問う真実。
「うん。ちょきのカット」
「また行くの?」
呆れ顔の真実。
〈ちょき〉とは、織瀬の飼い犬のトイプードルの名だ。正式な名前は〈ちょきん〉という。なかなか貯金の貯まらない織瀬が、自分への戒めのためにつけた名前だったが、さすがにそのまま説明するのははばかられ、普段から通称で呼んでいる。ちょきんは、トリマーサロンに務めるつかさのいい常連客だ。
「だって。真っ黒すぎて、すぐ目がどこか解らなくなっちゃうんだもの」
これも「黒字」にあやかってのことではあったが、思いのほか毛量が多く、小柄なプードルの顔はすぐに覆われてしまうようだ。貯金をしたい織瀬には招き猫になるどころか、一番の浪費のもとかもしれなかった。
「ま、いいけど」
大通りに出てタクシーを拾う。
真実の経営する「吉澤産婦人科医院」は織瀬のマンションの帰り道にあった。手術がある前の晩は院に泊まるのが真実の習慣、ジンクスらしい。だが、理由は誰も知らない。
「…兎追(とおい)町、吉澤産婦人科経由で、4丁目」
織瀬を奥に座らせ、慣れた口調で乗り込む真実。
「また、鳴ってる」
バッグの中が小さく震えながらほのかに光を放つ。
「さっきの電話?」
織瀬の膝の上のバッグを覗く。
「わかんない。旦那、かも」
「ユキくん?」
ありえないと思いながらもバッグの中の画面に目を落とすと、〈樋渡 幸(ひわたりゆき)〉そう文字が浮かび上がっている。
「あ、そうみたい。ちょっとごめん…」
滅多に掛けてこない夫の名前、今度は自分の携帯電話かららしい。先ほどのように早々に切られるのは忍びない。が、それよりも珍しいコールに嫌な予感が否めない織瀬。
「もしもし…?」
恐る恐る耳にあてると、
『悪い、お袋が来た』
間髪いれずに夫の押し殺したような声が飛び込んでくる。予感的中というわけだ。
「なんでよ?」
なるべく機嫌を悟られないよう答え、真実に「問題発生」と目で訴える。
『また親父とやらかしたらしい。オマエのことはうまくいったつもりだけど…』
覚悟して帰らなければならない…と、電話を切りながら織瀬は胸にざわめくものを感じていた。
「お義母さんがきたらしい」
特に後ろめたいわけでもなかったが、息子を溺愛している義母にとって、嫁のシンデレラタイムの帰宅に面白くない顔をするのは当然予測できた。
「こんな時間に?」
「たまにあるの。お義父さんと喧嘩するとね…タクシー飛ばしていつでも来るの。こないだなんか…」
「運転手さん、上から行ってくれる? 4丁目を先に」
気を回した真実が自分より先に下ろしてくれようとしている。
「あぁそんな、平気なのに…」
言いながらも本当はまったく平気じゃないことは知れていた。全然、間に合ってない。それどころかいっそ「帰りたくない」とさえ思う織瀬だった。
到着までの間2、3会話をしたが、なにを話したのか思い出せないほどに胸に重いものを抱えたまま、マンション前に到着した。この時間なら通常20分を要する駅からの距離も、深夜だと15分弱。だからと言って事態が好転するわけではなかったが、慌しく財布を取り出そうとする織瀬に「そんなのいいから」と車を下りながら真実が制する。
「また連絡する。ありがとね」
片手で「ごめん」と手をかざして眉根を寄せる。
「いいから、入りな。またね」
再度車に乗り込むドア越しの真実に、織瀬はニコリとだけ返すと当然の流れのようにため息が出た。

画像1

息を呑み、エントランスでルームナンバーをコールする。
『あら、早かったのね』
織瀬の帰りを待っていたわけでもないのに「早かった」とは、そんなことを微塵も思っていない態度が伝わってくる義母の低い声。まるで自分の家のような振る舞いではないか。
「同居したつもりはないんですけど」
エレベーターに乗り込み、階数ボタンを力強く押しつけながら織瀬は小さくぼやく。
そもそも予告もなしに非常識な時間に出掛けてくる自分のことを棚に上げ、たまたま同窓会に出掛けていたこちらばかりが非難されているような気になるのは理不尽ではないか。とはいえ、それが現実の嫁姑の緊張関係というものなのだろう。
(だいたいなんで幸がインターフォンに出ないのよ…!)
「おかえり」
部屋に着くなり玄関先では、夫が不機嫌そうに出迎える。こちらもまた「立場は逆なはず…」とそう言ってやりたい口を閉じ、突然の母親の訪問に「気が重い心情は夫も同じ」と、織瀬は充分理解していた。
「ちょきは?」
愛犬〈ちょきん〉は義母が苦手だった。
「怯えて書斎に逃げ込んだよ」
呆れた口調で答えながら、書斎を顎で示す。
「そ…」
ハイヒールを片方ずつ外しながら、ちらりと右前方の扉に目を走らせる。
啼いてはいない…そう確認したのち、
「今日はなんて?」
大人しく座ってはいないだろう義母の様子を伺う。
「知らないよ」
「週末に来るなんて珍しいじゃない。お稽古あとで疲れてるはずじゃ…?」
ヒールを並べながら視線を移すと、躾(しつけ)教室をしている義母〈頼子(よりこ)〉のきちんと揃えられた草履が目に入る。
(相変わらず…)
きっちりしてる。そしてお高そう。
ほんの数秒の間にいろんな言葉が頭の中を交差する。
「なにしてるの?」
「メシ作ってるよ」
「はぁ?…こんな時間に?」
足早に、かつ静かに廊下を進んでいく。
「なんかやってれば気が済むんだろ」
「なんかって…」
(愚痴言いに来たんじゃないの?)
おそらく、夕方から出掛けて行った嫁が、愛息の優しさにつけこんでまともな夕飯の準備もせずに夫を放置した…というスタンスで自分の世界に入り込んでの行動だろう。
「ふぅ…」
急速冷却よろしく息を整え、
「戻りました…」
そろそろとキッチンを覗き込む。
真夜中を過ぎているというのにきっちりと着物を着込み、自前の割烹着を持参でやってきているあたり「長居するつもり」の様子が窺える。予想通りの行動に寒心せざるを得ない。
「はいはい」
いいながら頼子はちらりと一瞥、その一瞬のうちに頭の上から足の先まで舐め回すように視線だけが動いていく。今日の織瀬は腕の部分がシースルーになっている黄色いシフォンのワンピース姿だった。
「あなたはすんだのでしょ。シャワーでも浴びてらっしゃい」
動きを止めずに言葉だけを投げてくる。
台所を我が物顔で立ち回る姿がますます皮肉に感じられてならない。まるでこの場の空気を乱すな…といった風な物言いで「あなたのためじゃないわ」とばかりに忙しく手先を動かし目も合わせない。
「…はい」
静かに、聞こえるか聞こえないか程度の返事をして寝室に向かう織瀬。いつもなら「聞こえない!」と聞き返されそうなところだが、どうせ自分の声など義母の耳に届いちゃいないだろうと判断しての行動だ。
(だからって…なんで、ご飯?)
潔癖症とは言わないが、織瀬は自分のいないところで他人に台所を使用されることが一番嫌いだった。とは言え、翌朝にはぴかぴかに磨かれているのだから、それがまた癪に障る。
寝室のベッドにバッグを放り、すばやく部屋着に着替えた。
(今回はどれくらいの滞在かしら…)
頭を巡らせるも、長居するほど幸の実家との距離があるわけでもなかった。いわゆる「スープの冷めない距離」というものだが、それでも頼子はいつもボストンバッグを担いでやってくる。なにが詰められているのか重そうに、そういえば今夜はまだそれを見ていない。荷物も持たずに飛び出してきたのだろうか。
(このまま部屋にこもっていたい…)
でもそれも叶わない。
たとえ自分に用がなかったとしても、頼子になんの挨拶もなしに部屋にこもれば失礼に当たるだろう。図らずも「シャワーでも」と勧めてくれた相手に無言でやり過ごすには、あまりに距離感が狭すぎる。それに、あまりぐずぐずしているといつノックされるか解らない。もし今、このタイミングで部屋の中を頼子が目にしたら、どんなことを言われるだろう。おそらくただでは済まない。
(いっそ、見せてしまおうか…)
そんな考えを巡らせ、閑散とした部屋の中を見回す織瀬。
なんの変哲もない片付いた寝室。だが夫婦のためのクイーンサイズのベッドの上は、たくさんの枕やクッションが敷き詰められているものの、その配置は抱き枕よろしく中央を避けて並べられていた。その様子から夫婦円満を連想するのは難しい。
だが、それをすることは織瀬にとってはプライドが許さないことだ。プライドよりも、ますます自分を追い込むことにもなりかねないのだ。
「お風呂、入ります」
普段なら必要のない言葉を述べながら、頼子の荷物をうっすらと目の端で探る。
(いつもの身上道具はどうしたのよ…?)
リビングを素通りし、廊下に出たところで、
「今の同窓会は結婚式みたいな格好するのね」
独り言のように、だが明らかにその先には夫を哀れんで見ているだろう頼子の言葉が耳を刺す。
(しっかり聞こえてますけど…)
リビングのガラス扉を背に、口を尖らせる。
(荷物…見当たらないけど…?)
もう一度振り返ろうとした織瀬は、義母の声に廊下を急かされた。
「私が織瀬さんの年の頃には、あなたの中学受験で同窓会どころじゃなかったかしらねぇ…」
「そんな歳だったかよ…」
ところどころ気遣いながら夫がフォローしてくれてはいるが、まったくフォローされている気がしない。
その言葉こそ織瀬の耳には届いてこなかった。「織瀬さんの年の頃には…」自分には子どもがいて、その世話に追われて同窓会どころではなかった…と、息子に子どものないことを痛んだ義母の言葉。
(結局言いたいことはそこよね…)
織瀬と幸の間には子どもがいない。それは言われるまでもなく、自身も気に病む事実である。それに対し、同じ当事者である夫がどんな言い訳をするのか実に興味深いところであったが、その言い訳を一番聞きたいのは義母ではなく自分の方だと苛立つ織瀬。
「もう、そんなのいいから…」
なんとか頼子をおとなしくさせたい幸の言葉。だが、どんなに不機嫌そうなトーンでも、織瀬の耳にはじゃれているようにしか聞こえない。
「もう済むわ。そんなことより、あなたたちどうなってるの?」
2、3会話しているようではあったが、期待できないセリフを「待っていられない」とばかりに織瀬は脱衣所のドアを開けた。
織瀬にとっての一番の問題は頼子ではない。こうして毎度、なにかと理由をつけやってくる義母に悪意がないのは解っていた。切望するがゆえに残念がっているだけというにしては、少々棘のある言葉ではあったが、それも母心として仕方のないものと諦められた。義父と喧嘩して「腹立ち紛れに八つ当たり」しているだけなのだと、頼子の言葉はいつもそう受け流すことにしている。
しかし子どもは、子どものことに関してだけは心に迫る憤りを抑えられない。
(できるわけないじゃない…!)
できるわけがない。
そう、恵まれないわけではなく作らない。作らないのではなく、作れない。
(あなたの息子は、あたしに指一本触れるどころか、同じシーツの上に横たわることさえないのよ…!)
織瀬はそう言ってやりたい気持ちを抑え、勢いよくバスルームのガラスドアを引いた。
結婚して10年、子供が嫌いなわけではない。いいや、嫌いなはずがない。むしろ結婚して一番に望んでいたことだった。義母以上にそんな生活を心躍らせ夢見ていた頃があったのだ。
しかし現実は、夫に求められることがない・・・・。
夫婦仲は決して悪いわけではなかった。むしろ10年連れ添っているわりには、円満な関係だと思っている。喧嘩もなくお互いの仕事を尊重し、束縛もほどほどに、会話がないわけでもなかった。
ただ、夜の夫婦生活がないだけ…。
「なにも知らないくせに…」
恨めしく言葉を吐いて蛇口をひねった。
夫である幸はもともと淡白ではあったが、付き合っている当初はお互いの仕事の量を考えれば「こんなものだ」とそれほど気にも留めていなかった。が、結婚となると、こうも触れられない毎日がどれほどの苦痛、いや侮辱であっただろうか。
「釣った魚にエサはやらない」とは言うが、織瀬にしても出会った当初のようなときめきを求めているわけでも、野獣のように毎日求めて欲しいわけでもない。女子高生でもあるまいし、そんなものはすぐになくなるものだと知っているし、徐々に少なくなっていくものだと理解もしている。自身もそれに固執するほど夜の生活を重視したいわけじゃなかった。だが、まったくないとなるとそれはそれでどうなのだろう。充分問題なのではないだろうか。
これがいわゆるセックスレスというものなのか…?
いくら執着していないとはいえ、織瀬とて〈オンナの悦び〉を知らないわけではない。女にも狂おしいくらいに求めたくなる夜がある。時に気が狂うほどにどうにかしてしまいたくなることだってあるのだ。だが、自慰行為に走ることだけはしたくなかった。一度そこに手を伸ばしてしまったら、いつも自分で自分を慰めることになりそうな気がしたし、それだけで満足してこのまま老いていくのはあまりに惨め過ぎるではないか。
まだ、あきらめたくない…!
それが織瀬の切なる思い、愛されているはずの満たされない心の隙間だった。
それでも最初の頃は恥を偲んで自分からそれとなく誘うこともあった。会話をそちらの方に促してみたり、身体を寄せてみたりとしたたかにアピールもしてみた。所詮男と女、同じベッドに横たわっていればそれとなくそんな空気が訪れるものだと思っていたからだ。だが、自分の夫はそうではなかった。口に出してそれと懇願することはどうしても織瀬には出来なかったので、時折そろりと夫の足の間に手を伸ばしてみることさえあった。それにどれほどの勇気を持って挑んでいるのか、こちらの気持ちをどう受け止めているのか、それすらするりとかわされる。
そういった欲情は、男性の方が強いのではないだろうか…。自分の夫はそうではないのだろうか。
そうして行き場のない身体をもてあます夜が幾度となく過ぎて行った。わざと避けてのことなのか、こちらの意図に気づかないのか、意に添う結果は得られることなく、眠れない夜を過ごした。
女としての魅力がないのだろうか。
数ヶ月に一度の身体の火照りを満たすための努力が報われないと、自分がそんなことばかりを考えているようにも錯覚し、そんな自分が淫乱に思えてならなくなっていった。そう思ってしまうのには理由もある。夫から誘ってくることが一切なかったのだ。なぜ誘われないのか、聞いてみようにも自分ばかりががっついているようでそれもはばかられた。そちらがその気ならと背を向け、距離をとり、そうしていながらも涙に暮れる夜。そんな自分に気づきもせずに寝息を立てている夫を恨めしく思い、一緒のベッドに入ることを躊躇し始めた頃、夫は仕事を理由に寝室に入ることすらなくなっていた。その行為こそがなにより織瀬を追い詰めた。
体のことを思えば、ベッドで休むことを奨めるべきなのだろうが、もうそうすることが出来ないくらいに織瀬の心は疲れてしまっていた。
ようやく「あきらめられた」ということか。
「…女の身体には期限があるのよ」
何度となく繰り返した心の叫び。恨めしくつぶやき、バスルームの鏡に映った若い頃とは違う張りのない自分の身体を抱きしめる。翌月には織瀬も38歳になる。もうまもなく40を迎えようとしている激しく求められることのないかわいそうな肢体(からだ)。そりゃあモデルのような整ったものではないにしても、女を干されるにはまだ早いのではないだろうか。それとも世間一般では当たり前のことなのか。それにしたって織瀬には、初めからそんな甘い夜など訪れはしなかったのだ。子どもを産むにしても、年を重ねればそれなりにリスクも増えるだろう。
そうして蓄積された疑問や不安が、織瀬の笑顔を曇らせていったのだ。そこにはかつて『おてんば』と呼ばれていた底抜けの明るい笑顔は、もう影さえなくなっていた。
夫は気づいているのだろうか。夫以外だれが気づいてくれるのだろう。
(やだ、泣きそう…)
義母の訪問は、普段考えないように努めていることをこうして無理に思い起こさせる。それが一番の苦痛だった。
いつまでも鏡を眺めているのも空しいと、熱いシャワーをかぶる。長湯していたらまた、頼子になにを言われるか…そう思ってはたと気づく。
「あ…」
(明日…)
ふといつものように髪を洗い、しっかりとコンディショナーまでしてしまっている普段どおりの行動に我に返る。ほろ酔いでいい気分だったのもつかの間、すっかり頭も冴え渡ってしまい急に現実に戻った。
(シャワーだけのつもりだったのに…)
妙に損した気分に駆られる。
「…やっぱり仕事、出ようかな」
織瀬は小さなチャペル付きのゲストハウスで〈ブライダルコンシェルジュ〉をしている。その名の通り、来客に対し宿泊施設やコミュニティ空間を提供する多国籍賃貸施設であるが、中でも織瀬の専門は披露宴やパーティ業務だった。ふたりきりからでも出来る手作りの結婚式、型にはまらない「オーダーメイドウェディング」をコンセプトに起業されたまだ若い部署だ。広告代理店でグラフィックデザイナーをしている幸とは仕事で知り合った。

洋梨

「…ふぅ」
同窓会で遅くなることを想定し、帰りの心配をしなくてもいいよう翌日は休みを取っていた。どこへ出掛ける用事があったわけでもないが、幸はおそらく義母にかかりっきりになるだろうし、今の気分で明日一日家にこもって義母の相手が出来る自信もなかった。
やっぱり仕事に出よう…とカランの詮を落とす。
カリカリカリ…カリカリ…
(?)
静かになったバスルームの外で、小さなひっかき音がする。
「あ、ちょき!」
織瀬は慌ててバスタオルを巻き、バスルームのドアを押し開けた。
脱衣所のドアの細い隙間から、ちょこちょこと真っ黒な毛の塊が滑り込んでくる。
「ちょき~」
静かに名を呼びながらしゃがみこみ「ごめんねぇ」と、擦り寄ってくる愛犬の毛皮を撫でつける。ふと視線を感じ見上げると、ドアの隙間に幸の後姿が見て取れた。
「お袋、もう寝たから」
「ぁ…うん…」
少し、ドキリとする。
ちょきんを抱き上げながら再度隙間を見るが、もう幸の姿はなかった。
「旦那様は今日も書斎ですか…」
胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「ちょきはママのことこんなに好きなのにね~」
ちょきんが人間ならよかったのに…とさえ思えてしまう自分が情けない。「重症だ…」と自分で自分を叱責し、ため息をつく織瀬。
「ちょっと待ってね…」
生乾きの髪のまま、着替えを済ませて書斎を覗く。
灯りはついていない。
「…なに?」
暗がりから幸の声。
ドンナ、カオヲシテイルノ…?
「今日くらい、寝室で寝ない?」
リビングに寝ている義母は、すぐ脇に隣接する寝室に息子夫婦がいないことをどう思っているのだろうか。
「もう、お袋寝てるし。いいよ、ちょきと寝室で寝て」
答えは解りきっていた。それでも期待してしまう自分をどう受け止めればよいのだろう。
アタシガ…インラン、ナノ…?
「リビングに行ったらちょきが騒ぐから、ちょきの部屋で寝るよ」
ちょきんの部屋、それは玄関脇の4畳半までない狭い収納部屋のことだ。畳敷きの部屋なので、元は客室のはずだった。今は愛犬のゲージとソファベッドが置かれている。これも初めは「頼子対策」だったはずだ。犬が苦手な頼子が、夫婦喧嘩ごときでそうそう我が家にやって来れないようにと、客室を使用できないようにすれば突然の夜の訪問もなくなるだろうと。だが結果は、小さなちょきんの方が頼子を怖がり、頼子はリビングに客室の布団を運び込むことを容易に成し遂げた。
「明日、やっぱり仕事に出るね」
明日は日曜。披露宴こそなかったが、忙しい日ではある。
「わかった。…おやすみ」
「おやすみ…」
優しい旦那様の声に後ろ髪引かれながらパタリとドアが閉まる。
「興味ないよね…」
こんなにも近くにいるのに遠い。
(別に襲いやしないのに…)
母親の前で取り繕うこともしないのか…もちろん、義母が息子に「なぜ寝室で寝ないのか」などと聞いてくることもないのだろうが。むしろ自分に気を遣って寝室に入れないのだろう…くらいに思っているのかもしれない。

ひとりでいるよりふたりの方がさみしい…織瀬は少しきつく愛犬を抱きしめ、玄関脇のドアを静かに開けた。


まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します