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小説『オスカルな女たち』9

第 3 章 『 原 点 』・・・1


   《 元カレ 》


ハッピーバースディ!

「おめでとう、つかさ。急でこんなのしか用意できなかったけど」
言いながら織瀬(おりせ)は、かわいらしくまとめられたブーケを手渡す。
「ありがとう、かわいい…。あ~とうとうこの日が来ちゃったか」
6月29日はつかさの誕生日だった。
「つかさが一番だもんね」
ちょうど金曜日で、うまい具合に都合がついた織瀬、真実(まこと)、つかさはいつも通りバー『kyss(シュス)』で落ち合った。
「…で? 昔の男がなんだって?」
化粧室から戻った真実が、織瀬とつかさのいる丸テーブルに向かい合わせて座ったちょうどその時、タイミングよくというのか間が悪いというべきか、注文したアルコールを運んで真田がやってきた。
「お待たせしました」
「浮気するなら元カレがいい、って話」
いつもと流れの違う話に、楽しそうに織瀬が答えた瞬間だった。
「よくそんなこと思いついたね」
ジョッキを受け取りながら、つかさを見て真実が言った。
「玲(あきら)が言ったのよ」
「玲…?」
「そう。エステでそんな話を聞いてきたんだって」
織瀬にはジンフィズ、自分には赤ワインのデキャンタ、グラスを置いて立ち去る真田の背中を見送るつかさは、続けて織瀬に目線を移した。
「ね、あれからここ来るの、初めて?」
小声でささやきながらも前のめりなつかさは、先ほどの織瀬のセリフが真田の今後の行動にどう影響するのか、少なからず興味があるからに違いなかった。なんとなく空気を察した織瀬は、ただ眼差しで「うん」と応えて見せた。
「なに、他にもなんかあるわけ?」
そんなふたりのやり取りを見逃さない真実は、ココナッツの実でできた容器に入れられたナッツを無造作に掴み上げた。
「バーテンの章悟くん。ここ最近の織瀬に対する視線が気になってね…」
織瀬の「言わないで!」の視線を横目に、ワイングラスを傾けるつかさ。
「…あぁ。それはあたしも気になってた」
チラリとカウンターに目を移す。
「見ないで…」
息を吸いながら制する織瀬。店に入ってからというもの、カウンターに席を設けなかっただけでもまだ救いだったが、胸中穏やかというわけにはいかない様子。
「でしょー。気のせいじゃないよね」
真実の言葉にますます得意顔のつかさ。
「だからってどうこうってわけじゃないんだから…!」
届かない距離であるはずなのに、それでもひたすら小声の織瀬は落ち着かない。
「まあ、危険はないんじゃないの? カウンターの向こう側にいるうちは」
妙に含んだ言い方をする真実。それを受けつかさは、
「そうねぇ…。でも、出てくるかも~?」
あおるようにカウンターに視線を投げる。
「出てくるかねぇ…。賭ける…?」
続いて真実も意地悪くカウンターに視線を流そうとする。
「ちょっとやめてよ、ふたりとも」
「やだ、これって、ものすごく女子会っぽーい」
必死の織瀬を取り合わない、今夜のつかさにはいつものクールさが感じられない。
「元カレの話はどうなったのよ」
なんとか話を逸らしたい織瀬。
「ああ、そうね。…でもさ、実際元カレなんて、別れてからまた会いたいと思う? マコちゃんなんて元カレどころか元ダンじゃんね?」
「ないね…」
真実にとっては聞くまでもなくといった感じだ。
「普通はそうだよね。…織瀬は?」
「考えたこともなかったけど…。あたしは、会いたくないかな。会いたくないというより、見られたくない?」
「なにを…?」
「今の自分を…」
拗ねた言い方をする織瀬は、そう言ってグラスに口をつけた。
「あぁ…」
「それもありだな」
なるほど…と頬杖を突く真実。
「…そう言えば聞いたことないよね。…幸(ゆき)さんとの馴れ初めはなんとなく聞いてるけど、幸さんの前はどんな人だったの?」
と織瀬を意味ありげに見つめるつかさ。
「高校の頃の織瀬からはまったく男感じられなかったけどな~」
いたずらな目で織瀬の頬を人差し指でなでつける真実。
「あの頃はかわいかったの~」
顔をしかめて見せる織瀬に、
「今はかわいげないもんな~」
そう言ってからかうと「短大って結構合コンの話多いんじゃないの?」と、目を細めてなぞるように見据える真実。どうやら今夜の酒の肴は織瀬に白羽の矢がたったらしい。
「そんなことないよ。2年はあっという間。あたしは、授業の合間に英会話に通ってたからそんな時間なかったし。本気でホテル勤務狙ってたから、着付け教室とか、フラワーアレンジメントとか、空き時間は習い事に費やしてたもん」
「へぇ~、そうなんだ。…そのセンスはダテじゃないのね」
言いながらワインを喉に流し込むつかさ。
実際、これまでの織瀬のプロデュース力に感心させられているのは事実であった。口に出してこそいないが、下の弟たちの結婚式は織瀬に仕切ってもらいたいとさえ考えているほどだ。
「それで、なんでホテル辞めたの?」
真実はジョッキを口元にとどめ、思い出したように織瀬の顔を見遣る。
それはふたりの素朴な疑問、そうまでして勝ち得たホテル業務をわずか3年という期間で終止符を打っていた織瀬。4人が出会ったころには既に、今のブライダル専門の業種に就きすっかり馴染んでいたほどだ。
「え…っと、いろいろあったんだけど…」
話が妙な方向に向いちゃったな…と、心なしか戸惑いがちな織瀬は飲みかけのカクテルグラスに手をそえたまま、
「…ホテルで、ブライダル部門に配属されてから、花嫁さんのサポートとか会場作りとか、そっちの方が楽しくなったっていうか…。だから、ずっとそっち方面でやっていこうと思ったら、ホテルじゃ中途半端な気がして…さ」
言葉を選ぶようにして慎重に話し、ひとつひとつ言葉を確かめるようにしてからグラスを口に運んだ。
「確かに、ホテルじゃ異動もあるだろうしね」
「で、今の上司に出会ったわけだ」
意外なことに、織瀬から仕事の詳しい話を聞くのはこれが初めてかもしれない。再会してからまもなく10年、お互いまだまだ知らないことがたくさんある。

「…て、いうか」
織瀬はホテルを辞めた後、少しの期間小さなブライダルショップでアルバイトをしていた。主に貸衣装と写真撮影が専門のチェーン店ではあったが、花嫁に関わりたい織瀬にはそれだけでも充分だったと語った。そこを今の会社の代表に引き抜かれたのだった。
「今の上司は…もともと、ホテルの業務統括にいた人だったの。ホテルって泊まるだけじゃなくて、当然だけどいろんな使い方する人がいて。その中でも会合とか…部屋をとって話し合いをする人たちはいいんだけど、ロビーで接待とか、時々そういう人たちが大声で揉めたり、手が出たりってことがたまたま続いたんだよねぇ。…で、彼はもともとウエディングにはまったく興味はなくて、そういう企業向けに場所を提供するゲストハウスをメインに起業したわけだったんだけど。どこかの会社の研修施設を居抜きで買い取ったら、その施設の中に小さなチャペルがあって…もったいないから結婚式も請け負ってみようか、…ってことになって。…で、定職に就いてないあたしが呼ばれたってわけ」
ざっくりと話をして、ゆっくりと瞬きをする。
「じゃぁ今の会社は引き抜きなのね」
「うん。そう…なるかな」
平静を装ってはいるが、織瀬の胸中は穏やかとは言えず、ところどころ都合よく言い換えながら、自分が動揺していることを必死で悟られまいとした。
間違いではない、もんね…そう心の中で言い訳し、グラスを再度口に運びながら、余計な突込みに対応すべく超特急で思考を巡らせていた。
「へぇ…。そこでユキくんと出会った、と…。でも、そのあいだの元カレの話が抜けてるけど?」
すっかり飲み干したジョッキをカウンターの方に振り上げながら、拍子抜けしたように頬杖をつく真実。
「だから…、大した付き合いはなかったってことよ」
必死に話を締めようとする織瀬。
「その大したことのない付き合いだからこそ、元カレっていうんじゃないの?」
くすくすと笑いながらつかさが続く。
「まあ、そうだけど…」
織瀬は一つため息をつき、
「…念願のホテルに入ったら研修で毎日がいっぱいいっぱいだったし、同僚とのつきあいも精一杯。気づいたらまわりはうまくやってて、鈍くさいあたしは取り残されちゃった感じ? 転職してからは必死だったから、結婚なんかまるで考えてなかったし…」
(…結婚、できないと思ってたし…?)
「でも、ユキくんに見初められたわけだ」
「そう…ね。でも、それも宝くじみたいな感じだったけどね、あたしにとっては…」
「宝くじって、どんだけの確率よ」
「だって…」
在宅業務の多い幸との出会いは、本当に偶然の賜物だった。滅多に取引先に出向かない幸にたまたまついでがあり、担当者不在時の社内にはたまたま織瀬しか応対できる者がいなかった。そのとき幸が織瀬に一目惚れした…というわけなのだが、その間なにもなかったわけではない。それを運命というならば、ふたり、ものすごい引き寄せ効果だ。
「え? じゃあ…。それが事実なら、織瀬は幸さんだけ…ってことになる?」
まさか、ねぇ…と、織瀬を見るつかさの目は明らかにそうとは納得していない様子。
「…ま、まあ…。そういうことに、なるね…」
「ほんとに~?」
疑いの眼差しの真実。
「いいじゃない、そこまで掘り下げなくても」
これ以上はもうおしまい…そう言って織瀬はジンフィズを飲み干した。
「転職してからがあやしい」
「だな」
「もう、まこと~!」
「はいはい。ユキくんひとすじなのね…」
ひとすじ…。そう言われることに罪悪感を覚えるのはなぜだろう。幸のことはもちろん好きだが、もう「ひとすじ」ではないのだろうか。
(あの頃の幸は、やることなすことみえみえで…。行動のひとつひとつに綻びがあって、解りやすくてかわいかったんだけどなぁ…)
当時の幸のシャイな行動を思い浮かべて笑みをこぼす。
「宝くじだからありがたみが解らなくなっちゃったのかなぁ…」
「なにおかしなこと言ってんの」
話の落ちがついたところにアルコールが運ばれてきた。運んできたのは真田ではなかったが、真実のジョッキだけでなく当然のように織瀬のカクテルグラスも運ばれてきたことに彼の心配りが窺える。
目を見合わせる真実とつかさに、織瀬は気づかない振りをするが、
「なによ…」
視線にたまらず応えてしまう。
「ま、あたしたち、常連だし…?」
だれに言い訳するともなくつかさはそう言って、デキャンタのワインをグラスに注いだ。
「つかさはどうなのよ、元カレ…」
「そうだ、つかさ…! 今日はつかさがメインなんだから、つかさの話をしようよ」
話題を避けるためなら何でもいいと、必死な視線を投げかける織瀬。
「えぇ…あたし? あたしはぁ…」
考えながら、なんだか結局こないだと同じ展開になってきたな…と玲の家でのことを思い返し独り言のようにつぶやく。
「実は、いたのよね…ひとり、それらしいのが。吾郎と出会う前に」
つかさは先日の帰り道、懐かしさで胸がいっぱいになっていたことを思い出していた。
「玲に言われて、今さら…って思ったんだけど。もしかしたら、今と違う生活を送っていたかもしれないなあって…ちょっと考えちゃったんだよねえ」
「やだ、つかさ。もっと飲んで、もっとしゃべって~」
織瀬は嬉しそうに囃し立てる。
「あれをつきあいのひとつとして数えるなら、だけどね」
「…その玲の到着だ」
入口に意識を集中していた真実が、玲の入店を確認して手をかざす。
「…ごめんなさいね。だいぶ待たせたかしら?」
玲は髪を後ろに払いながら、ずいぶんと急いできたようで少々頬が紅潮していた。
「平気」
テーブルの場所を少し空けながら答えるつかさに、玲は軽く手を振って、
「ついて早々だけど。お腹すいてるのよね…場所変えない? 行きたいところがあるのよ」
その提案に、当然賛成の3人は顔を合わせる間もなく素早く荷物を掴んで席を立った。
「ここは私が持つわね、待たせちゃったお詫び…」
言いながらカードを取り出す玲に「ラッキー」と素直に喜ぶ真実、「それは申し訳ない」と財布を取り出そうとするつかさに、「えーいいのー」とどっちつかずの織瀬。いつも通り、あべこべのようで丁度いい会話をしながら、4人のオスカルは慌ただしく店を後にした。


そんなやり取りがあって数日、織瀬は再び店を訪れることとなった。
「珍しい取り合わせですね…」
コースターを差し出しながら、珍しい織瀬の連れを一瞥する真田。
「うちの代表です。先日ご紹介いただきました沖様、契約が成立致しましたのでお礼を申したいと…」
(まさか上司とここに来る羽目になるとは…)
思ってもみなかった織瀬は、軽く会釈しながら業務用の顔を崩さぬままに右手を翻して隣の男を紹介した。
「いやぁ、七浦が、男から客を紹介されたって言うから興味もあり、まし、て…。君だったとは…」
織瀬の目線の先には恭しく名刺を取り出そうとスーツの内ポケットを探る手の盛り上がり。親子ほどある身長差がいつも織瀬を委縮させた。その上司の名は〈内野正直(うちのまさなお)〉織瀬の勤める会社の代表であり創設者だ。
「え? 知ってるんですか?」
「だって、出入りの業者だし」
ねぇ、と真田に目配せし、胸元に差し込んだ手を引き戻し、さっさと席に座る内野。それを受けて真田も苦笑いする。
「そうですけど。…そんなに面識ありましたっけ」
そんなふたりを交互に見遣り、驚きをそのままに内野の左側に腰かける。
「お前、もしかして取引先の人間の顔覚えてないの? 怠慢~」
「そういうわけじゃ…」
そうは言いながらも事実、点と点が結びついてないのが本音だった。
「お前もお前だろ。七浦に気づかれないままやり過ごしたのか?」
内野はなぜか織瀬を旧姓の〈七浦〉で呼ぶ。それは意識的なのか、面倒くささからなのか、聞いてみようと思いつついつも機会を逃していた。
「いつか気づくだろうと思ってたんですけどね…オレ、印象薄いみたいで」ちらりと織瀬を見遣る真田に、
(なによ、それ)
「よくいうよ、このプレイボーイが」
(このふたり、そんな仲?)
「現場、おろそかにしてんじゃないの~? 俺、バーボンね。お前は?」
「そんなことないです! あ…あたしはっ」
「いつもの、でよろしいですか?」
「え? ああ、お願い…」
俯いてふたりに判らないよう眉根を寄せる。
(なんか嫌な汗かくなぁ…)
覚悟していたとはいえ、早々に帰りたい衝動に駆られる織瀬。なるべくなら上司にプライベート空間をさらしたくない。ましてやここは4人のオスカルのお気に入りの場所だ。
「なに、いつものって。そんな常連? 大人になったなぁ」
そう言って内野は楽しそうに、くしゃくしゃと織瀬の頭を撫でまわす。
「ちょっ、やめてください。そういうの…」
(こうなると思ったのよ…なんで連れてきちゃったんだろ…)
髪を撫でつけ、ため息をつきながら内野を睨みつける。
「相変わらず仲がよろしいですね…」
バーボンを差し出す、真田にとってこのやり取りはそう目新しくもないらしい。
(相変わらずって…そんなにあたし、人前で代表と絡んでないと思うんだけど)
「そうか? 最近じゃあ偉くなったもんで俺なんか用なしだ」
放り込むようにしてバーボンを喉に流し込む。
「また、そういうことを…」
どこに行ってもこの人のペースに持ち込まれてしまう。この調子に乗せられて油断していると、あとで痛い目をみることになるのは経験済みだった。
(早々にこの場を切り上げよう…)
と、悪癖に慣らされた今はそう心に強く思う織瀬だった。
内野という男はいい加減なことを言いながらも抜け目なく、人を油断させておいて突き放す。ただの悪趣味なのかもともとの性格か、腹の底には人を貶める言葉をたくさん蓄える、名前に反した「あまのじゃく」で、なにを考えているのか実に理解に苦しむ男だった。
しかし、時に女は陰のある男やそんな危険指数の高い男に憧れを抱いたりもする。織瀬も例外でなく、過去にさんざん振り回された…ということだ。
「どうぞ」
そう言って真田から目の前に差し出された「いつもの…」カクテルは、いつも同じものとは限らなかった。
「ドライマティーニです」
「ありがと」
(…ドライマティーニ。好きだな…)
いつからだろう。なにも言わなくてもその日のカクテルが差し出されるようになったのは。
ビールオンリーの真実や玲には2度3度と訪れるうちに黙って差し出されるようになり、つかさに至っては昔なじみのつきあいからか好みの赤ワインが揃えられていた。
織瀬はジンベースのカクテルが好きだったが、それほど詳しくもないためジンフィズを好んで注文していた。それが時折ギムレットになり、ホワイトレディになり、注文しなくてもその日の気分にあったアルコールが差し出されるようになっていた。
「ホントに大人になったんだな…」
カクテルに口をつける織瀬を見下ろし、内野がしみじみとそんなことを言った。それも当然の言葉で、内野とは20歳からの付き合いでかれこれ20年近くになる。
「いくつになったと思ってるんですか。あたしも…」
もう間もなく40…そう言おうとして途端に真田の反応が気になった。が、いつもなら食いついてきそうな場面に、今日の真田はとても大人しく白々しいほどにバーテンダーに徹していた。
(…まあ、助かるけど)
「式、俺も招待されてるんで…楽しみにしています」
どちらともなく話しかける。
「ああ。…ケータリングの方も、お前のところになると思うから。承知してると思うけど」
心なしか棘がある言い回し。
「…はい」
そしてなぜか空々しいふたり。
(…居心地が悪い…なに、この重い空気…)
「…俺、帰るわ」
2杯目のバーボンを水のように飲み干し、すっとふたつ折りにされた5千円札をカウンターに滑らせた。
「え? もう? 珍しいですね…」
引き留める気もさらさらないが、さっさと帰ってくれるならこちらとしては好都合だ。
(もっとめんどくさいこと言ってくるかと思った…。なにしにきたの?)
「次がある」
内野は面倒くさそうに憮然と答えると、織瀬の頬を軽くつまんでニヤリと笑って見せた。
「あ~…」
二の句がちっとも珍しくないことに「そうですよね」と嘲笑する。
「七浦どうする? 帰るなら送るぞ」
「結構です、自分で帰れますから。だいたい遠回りでしょう?」
「遠慮すんなよ、俺とお前の仲だろ」
「変な言い方しないでくださいっ。どうぞ次に行ってください」
「照れんなよ」
言いながら再度織瀬の頬をつねろうとする内野の腕を払い、
「照れてません! くだらないこと言ってないでちゃんと奥さんのところに帰ってください。次がある、とか、わけわかんない…」
一瞬冷めた空気が流れたが、織瀬は気にはしなかった。
「ほかにも待ってる女はたくさんいるんだよ」
そう内野は、背を向けたまま答えた。
「またそんなこと言って。そのうちホントに刺されますよ」
立ち上がり、あとに続こうとするが、
「見送りはいい。…」
追い立てられるように出口に向かい「あんまり飲ませるなよ…」と真田に目配せして出て行った。
(余計なお世話でしょー)
「まったく…なに考えてるんだか」
ため息をついてカクテルを飲み干した。


「もう一杯、飲まれますか?」
内野を送り出し戻ってきた真田は、訝し気に織瀬を見た。
(すぐ帰るのもなんだし…)
小さく微笑む真田に、少し考えてから答える。
「…おねがい」
「同じものでよろしいですか?」
「…そうね。今度は味わって飲むことにする」
内野に対する皮肉を込めて答えた。
「…織瀬さん、知らないんですか?」
「…なにを?」
真田は小さく息を吐き、
「内野代表、去年離婚されてますよね」
「…え?」
すぐに呑み込めない織瀬は、真田の言葉を頭の中でリピートする。
(…りこん?)
「え?」
「ホントに聞いてないんですね…」
バツの悪い顔をする。
「聞いてない、わよ。…てか、なんであなたは知ってるの?」
いくら取引業者とはいえ、部下の織瀬さえ知らないプライベートな情報を、なぜ知りえたのだろう。しかも、「去年」と言ったのか。
「偶然、奥さんが他の方といるところお見掛けして…。去年ケータリングで会社にお邪魔したときにそれとなく話したら『出て行った』…と」
(…去年?)
そう言えば、ちょくちょく会社を空ける日が続いたことがあった。あのときだろうか。でも。
「なんで…」
(なんで、あたしに言わなかったんだろう。…言えない? こともない、よね…)
「てっきり…」
言葉を失い黙っていると、真田は再び驚くような言葉を吐いた。
「一緒に来られたから。…ふたり、ヨリを戻されたのかと思いました」
思わず、持ち掛けたカクテルグラスを落としそうになる。
「は? だって、あたし」
既婚者だもの…そう言おうとして口をつぐんだ。
(ヨリ?)
そうして、ようやっと織瀬の中で、点と点が繋がったのだ。
「あ…あなた…」
だが、こちらの言葉を遮るように真田は続ける。
「元カレ…、ですよね? 内野さん」
言われるまでもなく、そうであった頃の痛烈な印象が織瀬の脳裏を走馬灯のように駆け巡った。
(そうよ…この人…。なんで忘れてたの、あたし…)
ホテルを辞めるきっかけになった出来事…。
「やだ…」
「思い出しましたか?」
「えぇ…あまりいい思い出ではないけれど」
それは10数年前、ちょっとした誤解からホテル内でふたりの関係が意図せぬ方向に進み、職場を賑わせることがあった。内野は騒ぎの責任を負い早々に自主退職を決め込んだが、それによって残された織瀬を擁護するものなどだれひとりとしておらず、結局辞めざるを得なくなった。それを抗議し織瀬は、内野と路上で大立ち回りをしたことがあったのだ。その時、内野と一緒にいたのが真田だった。
(…よりによって…なんて場面を思い出させるのよ、この人は…)
「ヨリ、戻ってないわよ…そもそもあたし、騙されてたんだから」
内野は前の職場の直属の上司だった。ノリのいい受け答えと、仕事に対する非情すぎる姿勢のギャップが、女子高上がりのお花畑脳の織瀬にはとてもたくましく見えたのは確かだ。そう、確かに、憧れていた。
「そう、なんですか?」
あんな修羅場を見せられて、真田が半信半疑なのも仕方がない。そこは微妙と言った方が近いのかもしれない。が、今さら言い訳したところでどうなることでもなかった。
ひとつため息をついて真田を一瞥し、目線を落とした。
「あたし知らなかったの。彼が結婚してること…。あの調子だし、いつも軽口叩いて女の子たちに声かけてたし。周りも『また始まった…』って感じで…。めちゃくちゃで」
そう言ってカクテルを飲み干し「もう一杯!」とばかりにグラスを真田に突き付けた。
「…いつもからかわれて、泣かされて、それでも憎めなくて…」
少し考えるようなしぐさをして静かに答える。
「好き、だった。…けど、彼女になりたいとか、そういうつもりは全然なかった。なのに」
つい、大きな溜息が出てしまう。
ある時エレベーターの中でふいに唇を奪われ、放心しているところを同僚に目撃されて、当然のように噂になり…。その後の顛末は安っぽいドラマの取って付けたエピソードのようにあっという間に拡散していった。
(…なんて、グレーゾーンの説明はいらないわね…)
「若かったのね…」
新しいマティーニを受け取りながら、真田を上目遣いに見た。
「子どもだったの、あたし」
(そうだ、この顔。思い出せないんじゃなく、思い出したくなかったんだ…)
真田はなにも言わなかった。
内野が仕掛けてきたのか、自分が誘ったのか、はたまた同時だったのか、今となっては言い訳にしかならない。だが、確かにそこに恋愛感情が芽吹いていたのは事実だ。ただ、経験の少ない織瀬にはそれを冷静に乗り切るだけの手立ても、知恵も備わっていなかった。
久しく感じていなかったときめきの余韻が胸を締め付ける。
「あの人、こともあろうに『俺の女に手を出すな』とか言ってふざけちゃって、それが上司の耳に入って。擁護してくれるどころか『責任取って辞めます』って自分だけ逃げたのよ…。聞けばあの頃、今の会社の立ち上げで休みがちだったし、ホテルを辞める理由を探してたっていうじゃない? 自分はそれでよかったかもしれないけど、残されたあたしの立場はどうなのって話よ! あ~思い出したら腹立ってきた」
カクテルグラスを持ち上げ再び飲み干そうとする織瀬の手首を、真田は上から押さえつけた。
「らしくないです、そんな飲み方…」
(らしくないですって…?)
キッと真田を睨みつけ、
「なによ、あたしのなにを知ってるっていうの」
すねた低い声で、少々きつい言い方ではあるがそれも仕方のないことだ。
ずっと心に引っかかっていた真田の正体が、よりによって自分の一番知られたくない過去の中にあったのだ。ただでさえ恥ずかしいのに、これ以上自分のなにを知っているというのだ。
「知ってますよ。…オレが初めて内野さんにお世話になったのは、織瀬さんの結婚式でしたから…それからずっと…」
(なんですってっ…!)
開いた口が塞がらないどころか、目を見開いたせいか涙までもが溢れてくる。真田の言いかけた言葉すら耳に入る余地もない。
それからずっと…。
「な…なん、なの。それ…結婚…しき」
(ですって…?)
「とってもきれいでかわいい新婦さんでしたよ」
「そんなことじゃないわよ…!」
蛇口の壊れた水道のように、あとからあとから涙が流れる。
(なんなの…なんなの…なんなの…!)
俯き、両手でこめかみを押さえて必死で涙を止めようとする。
「すみません、そんなつもりじゃ…」
女の涙に慣れていないのか、意外にも真田はうろたえた。もっとも、必死の織瀬にその様子が感じられたかと言えば、こちらもそんな余裕はない。
「いい。自業自得だから…」
それならば尚更、この男が幸の存在を知らないはずはない。なのにこのところの真田の思わせぶりな言動や、こちらを惑わせるような視線はなんなのだ。バカにしているのだろうか、夫に振り向かれないアラフォー女を…。バカにされているのだろうか、惨めな毎日を苦笑いで乗り切るさみしい女だと…。
「そうじゃなくて…」
「もういいわよ…。こっちこそごめんなさい、みっともない真似…」
(帰ろう…)
と、荷物を取りたいが涙が止まらない。
「織瀬さん、鈍すぎますよ」
(え…?)
「…なによ、それ」
(いうに事欠いて、鈍い?…ですって。失礼な!)
泣きはらした目で見上げると、真田もこちらを見下ろしていた。
「内野さん、牽制に来たんだと思います。『俺の女に手を出すな』…って」
「は、なにそれ。今さらそんなこと…。だから、」
だから、あたしは既婚者だって…そう言いかける織瀬を真田が遮る。
「じゃなきゃ、わざわざ店まで来ないでしょう」
こちらも必死の言い訳だ。
「え?」
「初対面じゃあるまいし。この店の名前を聞けば紹介者がオレだって解ったはずですよ?」
言いながらハンカチを差し出す真田。
(…確かに)
確かに言われてみればそうかもしれない。真田と内野は自分より以前からの知り合いなのだ。この店のことだって知らないはずはない。
店に来るときも「場所を知らない」と言いながらも内野は、いつものように前を歩いていた。からかわれることばかりを気にしていて気付きもしなかったが、楽しそうにしていたのは気づかない織瀬を笑っていたからではなかったのか。
「そういうつもりで来たんだと思いますよ、内野さん…」
「そういうつもり…?」
だからと言って今さらなんだというのだ。
「宣戦布告ってことじゃないですか」
その言葉からなにをくみ取れというのか。
「そんなこと…」
「織瀬さん。オレ…」
「…大丈夫、帰るわ」
急に冷静さを取り戻した織瀬は、受け取ったハンカチで目元を押さえ、鼻をすすって笑顔を作る。
(キキタクナイ…)
「そうじゃなくて…」
「ごめんなさい。飲みすぎよね」
言いながらハンカチを握りしめる。
(これ以上ココにいちゃだめだ…)
「織瀬さん。…オレたち、一緒に旅行でも行きませんか?」
(…そう。旅行でも行けば気がまぎれるかもね…。え…?)
「…は?」
(いまなんて? だれに言ったの?)



     

まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します