ガーベラ

小説『オスカルな女たち』12

第 3 章 『 原 点 』・・・4


   《 理想の母でありたい 》


玲(あきら)は代々続いている名のある資産家の生まれだ。仮に玲のことを詳しく知らなかったとしても〈御門(みかど)グループ〉と聞けばその名を知らない者はいない。国内外のホテルを始め、それに併設するゴルフ場やレストラン、温泉施設やその他大人向けのプレイランドなど、あらゆるアミューズメント施設を手掛ける大企業なのだ。
当時から隠しようのないその〈肩書き〉はいつも玲について回り、当の玲がそれを振りかざしていなくとも、周囲の人間は腫れ物に触るように扱い、世間話はおろか本音を言い合える友人などいないに等しかった。仮に本音を言ったところで、それをそれと受け取る者もいなかっただろう。少なくとも、玲はそう思っていた。唯一真実(まこと)だけは、母親が遠縁に当たるということもあり、幼い頃から親しくしてはいたが、それも玲にとってはそれほど重要ではなかった。
〈玲さんは、おいくつになられましたの?〉
年齢を問われるのも、公の場にあまり姿を晒さない玲だけだった。
〈お嬢様もいらしたのね…まぁ可愛らしい〉
などと、なかには存在すら知らない者もいた。
そういう意味では玲が一番自由だったと言えるのかもしれない。
〈少しは女らしく振舞いなさい!〉
〈言葉遣いに気を遣いなさい!〉
〈玲はまた逃げたのか!〉
若くして妻を亡くし娘を持て余す父親は、およそ思いつく限りの『女』としての『型』を玲に強いた。
幼い頃から習い事三昧、礼儀作法に行儀見習いと令嬢にありがちな日々を強いられてはいたものの、なんとなくやり過ごし理由をつけてはほぼほぼ抜け出していた。そんな日常生活を父親がよしとするわけはなく、なにかにつけお小言をいただいた。そして高校生になると今度は、毎週のように見合いをさせられほとほとうんざりしていた。それゆえ、学校が唯一父親の干渉のない安息の場であるはずが、なんの因果か親の付き合いの企業のお嬢様方に囲まれ、自由になる時間もままならない日々を送る羽目になっていた。
(充分に立ち居振る舞いには気をつけていたし、)
(人を愚弄するような言葉遣いもしたことはない)
(簡単に逃げ出せるほど私に関心を示したことなんてなかったじゃない…!)
結局は家のため、うまい具合に型にはめられていくのであった。
(なんのために女子高を選んだのか…)
逆らうことはしなかった。だが、溜め息は自分のための言葉なのかと、そう思えるほどに玲は日々に不満を感じていた。
そんな玲の気休めになったのが、取り巻き連中のさえずる校内の噂話だった。生徒が知りえない職員室内の情報や生徒の家庭の事情など、面白いことも聞きたくないこともどこから仕入れてくるのか惜しみなく耳に入ってきていた。

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〈玲さん、今度の茶話会はお出になられるの?〉
休み時間はいつも他愛もない話で始まった。
〈だって、うちのホテルでやるのでしょう? 行かないわけにいかないわ、父親の威厳の押し売りなんだもの〉
大きくため息をつく。
〈そんなこと…〉
〈お気遣いは結構よ。きちんと務めますとも…〉
当然ながら、自分に関心のない父親を玲は嫌っていた。人の話を聞かず自分の主張ばかりを押し付けるワンマンな頑固親父…それは普通の女子高生が年頃を理由に嫌うそれとは違い、嫌悪というよりは憎悪に近い感情だったかもしれない。
〈今月はブラジリアンカフェらしいわ…〉
それでも玲は、それらを退屈しのぎにできるほどポーカーフェイスで柔軟に対応できた。
〈楽しみですわね〉
一体なにを楽しみにしているのやら、玲に向けられる笑顔の裏にはなにが隠されているのか。
〈…そうそう。今度病休の先生の代わりでいらした講師の方、大学で野球をやっていらっしゃったとかでソフトボール部の顧問をなさるんですってね〉
そういう彼女は〈父母会〉に熱心な母親を持つ、職員室内の事情に詳しい『巻き毛のオスカル』こと〈西園寺明日香〉。自慢の髪はいつも1時間という念の入りようだ。
〈へぇ…〉
だが玲は、彼女の使っているシャンプーの匂いが嫌いだった。
〈授業も熱血ですわね、若狭先生…〉
そう語る彼女は若い男の新任教師が入ると、将来設計をすばやく計算し旦那様候補を物色する教師好きの『先見のオスカル』こと〈新堂桜子〉。彼女の家庭教師は教科ごとにおり、イケメン揃いらしいという噂もある。
〈そうね…〉
とはいえ、万全の体制を誇っているわりに、彼女の成績は上達しているようには思えなかった。
〈真実(まこと)さんはご活躍ですね。玲さん、応援には行かれますの?〉
こちらは、玲を目当てに群がるお金持ちの男子高生に将来を見出そうとしている医者の娘『快進(回診)のオスカル』こと〈如月遥(きさらぎはるか)〉。3つの質問をするだけで相手の資産が判るという特技を持つ。だが、実際に彼女がそれをもとに殿方選びをしている姿を目にしたことはない。
〈…差し入れをするだけよ。派手にするとマコ、嫌がるから〉
そして、彼女の目当てが「応援」ではないことを知っている玲は、彼女と行動をともにすることはほとんどなかった。
〈謙虚ですわね、真実さん〉
〈私が邪魔したくないのよ…〉
最近では真実の活躍にマスコミも騒ぎ始めた。煩わしさは少ない方がいい…それは玲自身が一番、身に染みて感じていることでもあった。
〈私は遠くから見ているだけにするわ〉
〈わたしたちも遠慮した方がよろしいですか?〉
こちらの彼女は本気で華やかな舞台に憧れる夢見る夢子、実は芸能界入りを切望しているらしいと噂の『観劇のオスカル』こと〈花村弥生子(やえこ)〉。「祖母が国際結婚をしている」ことだけが唯一の自慢だった彼女は、めぼしいコネも権力もない普通の家庭に育ったゆえ、こうして玲にまとわりつくことでチャンスを得ようと必死なのだ。
〈あら、応援にいらっしゃるの?〉
それとも、マスコミの注意を惹きたいの?
〈ぁ…応援は、多いほうが…〉
抜け目ない彼女が、マスコミの出入りを把握していないはずはない。
〈そうね。よろしいんじゃないかしら〉
だがこれも、玲にとってはどうでもいいことだ。
〈ですよね…!〉
玲にとってはすべてが退屈のそれでしかない彼女たちの事情だが、なんだかんだとまわりにはそれぞれに理由があるらしい。
〈…そう言えば、『旋律のオスカル』の木崎さん、先日のコンクールで留学が決まったそうですわ。玲さん、なぜ出場なさらなかったんですの?〉
大きな病院の跡取り娘である遥は〈肩書き〉が大好きだ。
実際母親が健在であったならば、玲のピアノも気まぐれ程度におさまらず、将来に繋がる特異なものであったかもしれない。だが、期待されないことに力を注ぐほど、当時の玲は物事に執着する精神を持ち合わせてはいなかった。
〈興味ないわね。彼女ほどピアノに愛着もないし…よろしいのじゃなくて…?〉
退屈な毎日の、退屈な時間。退屈なご友人に、退屈な話題。
〈あの方、婚約者が音大にいらっしゃるとか…〉
教師好きの桜子はそれがピアノ講師だと知っている。
〈そういえば玲さん…先週のお見合いはいかがでしたの?〉
将来の夢は「お嫁さん」である明日香は、その手の話題に敏感だ。
皆、噂話を持ちかけはするものの、結局のところ玲の動向が知りたくてしょうがない。ただの興味、あるいは野次馬根性なのだ。
〈あぁ。顔だけの男だったわ〉
〈また、玲さんったら…。弁護士の卵でしたのに…〉
残念、と憂いを帯びた息を吐く。
だれのために、なにを残念がっているのか。
〈なにかあっても彼の弁護は受けられないわね…受けるようなこともないと思うけれど〉
既にその経歴も、顔すらも覚えてはいない。3回に1度は義理で出掛けていくお見合いの席で、女に生まれたばかりに、父親は娘を資産運用の駒としか思っていないらしい。本音はどうあれ、玲にはそうとしか思いようがなかった。
(まったく。いつの時代よ…)
〈…留学もいいかしらね〉
ポツリぼやいてみる。
〈そうですわね…〉
〈玲さんなら選び放題ね、羨ましいわ〉
ぼやきさえも見逃してもらえない。
(あぁ、うんざり)
こうして入学当初より、玲にはイソギンチャクのように常に取り巻きがついてまわった。それは父親の事業に携わる企業のご息女たちばかりでなく、単なる興味の延長であったり自己主張の鼓舞であったりとさまざまだったが、親の言いつけなのか小さい頃からの習性なのか、玲(=玲の父親)に事業(=家族)で取り入ろうと勤しむ大人たちに毒された小さなお目付け役のようなものだった。
(私に取り入っても、だれの得にもなりはしないのに…ご苦労様だこと)
そんな風に玲はいつも冷めた目で周囲を受け止めていた。そうして高校生になるまでには、それらをうまく流せる術が自然と身に着いた。
〈…玲さん。あの方ですわ、花組の『孤高のオスカル』〉
両親が公務員の弥生子は、生徒のお家事情に詳しかった。
花組とは、当然ながらクラスのことである。創立当時は高等部と大学部だけであったが、時代の移り変わりと共に幼稚舎ができ、短期大学部、小・中等部と実に精力的に教育の場を広げていった。そこで老舗の女子高は、学年やクラスを数字やアルファベットではなく、優雅な表現で表されるようになった。そこも「オスカル」の由縁である宝塚さながらに「花」「月」「星」「空」「森」「山」と、学年に至っては「いろは…」で示され、高校1年生であれば「ぬ-花」「ぬ―月」…となる。小学6年生に至っては「へ-星」「へ-空」…と、多感な時期にはあまり口に出して言いたくない学年にあたるのだ。
〈孤高…?〉
その言葉には少々気がかりなことがある玲は眉根をひそめる。
〈彼女、もう働いているんですって〉
クスリ…と、参考書を手に颯爽と廊下を歩いて行く〈大賀つかさ〉をさげすむように嘲笑する。
そんな見下した言い方をした弥生子に玲は目を細め、
〈あら、はしたない。人を見た目や境遇で粗雑に扱っては失礼よ〉
いくら気が紛れるとはいえ、玲は噂話についてくる陰口や中傷のたぐいは嫌いだった。が、すべてに興味がないわけではない。
〈す、すみません。わたし、そんなつもりじゃ…〉
さげすまれるような言い方をされていても、教室の外を過ぎ去って行くつかさの姿勢からは、そんな哀れみなどかけらも感じられない。そんな背中を目で追いながら、
〈彼女、学年代表なのでしょう〉
少なくともあなたより賢いわ…という言葉を飲み込み、言いながら玲の胸の内は言い知れない苛立ちに支配されていた。
〈彼女…玲さんとご学友では?〉
明日香が口を開く。お受験で幼稚舎から繰り上がりの内部生の彼女らと違い、玲は高校受験をして入学した外部生だった。
〈…そうだったかしらね。覚えてないわ〉
余計なことを…と、答えるのが面倒なときの「覚えてない」。これは玲が話をはぐらかすための常套句だった。
〈確か、学区が同じだったはず…〉
もちろん玲も承知していた。が、玲はなにごとにも興味を示さない、お決まりのポーカーフェイスで返すだけだ。
〈へぇ…そう…?〉
〈違ったかしら…〉
確かに、玲とつかさは同じ中学の出身だった。1年だけ同じクラスになったことがある。いつも取り巻きのいる玲と違って、だれとも群れないつかさが少々鼻についたことを覚えている。
つかさはどこにいても目を惹く、玲とはまた別の「人を惹きつけるオーラ」があった。当時の玲にとっては、つかさも「注目される要素のない大勢いる同級生」のうちのひとり。ただそれだけのはずだった。だが、玲ほど派手な顔つきではなくとも、つかさは美人のカテゴリーに入る存在であったため、何度となくその名前は耳に響いてきていたのだ。玲にとっては特に目立った〈肩書き〉もなくただ「頭がいいだけ」の存在。だが「だれともつるまない」…それがどことなく心を騒がせた。
なぜそこまで気になっていたのか。それは、「孤独」と言う意味では同じ立場にあったせいかもしれない。いくら取り巻きがいるとはいえ、心を許せる相手がいなければ「独り」も同じだ。騒がしいだけでそれを除けば玲もまた孤高。ただ、ひとりで歩くかそうでないかの違い、そんな風に受け止めていた。
(どうしていつも、そうしていられるの…)
気に入らない…!
玲はひとりになりたかった。ひとりになりたいといつも思っていた。だからいつも「独り」のつかさが気にかかっていた。
玲の学生生活は、そんな取り留めのない退屈な毎日だったのだ。

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(あんなにもつかさを意識していたのは、どうしてかしら…?)
不思議なもので、あの頃の自分に今の自分が想像できただろうか…と考えると、頑なだった当時がおかしく思えた。
羨ましかったのだろうか・・・・。
(当時のつかさは、病気とはいえお母様が健在だったし…)
ボコボコボコボコ…
「あきらちゃん、今日は心ここにあらずだね…」
「え?…あぁ。ごめんなさい、なにか言った?」
ここは赤い部屋のあるマンションの一室。
「うん。この前の会食の時に望(のぞみ)兄さんに『社宅になるようなマンションを建てたい』って相談を受けたんだ」
「あら、よかったじゃない」
ボコボコボコボコ…
玲夫婦の〈愛の巣〉ともいうべき別邸のジャグジー。いつものように夫婦の営みのあとのリラクゼーションタイム。
「それで…ここ、どうかな?」
「ここ? このビルってこと?」
「そうじゃなくて、この先に、少し押さえてある土地があるから、そこを勧めてみようかと思うんだけど…あきらちゃんはいや?」
「あぁ、そういうこと?」
「まだまだ静かな方がいいってあきらちゃんが言ってたから、一応確認してからと思って。まだ土地の紹介まではしてないんだけど…」
「そうねぇ…」
考えているような相づちを打つ玲の様子が気になるのか、泰英はそれ以上この話題を進めることはしなかった。
「またなにか子どもたちの心配ごとでもあるの…?」
「え、どうして?」
「御門の家との会食も無事済んで、介人(かいと)のお披露目もできた。あきらちゃんの頭を悩ませることは済んだろ? お義父様もすごく喜んでくれてたじゃないか」
「そうね。お父様も、お年を召されたのね…『玲は野球チームを作るのか』だなんて、ベタな冗談言ったりして…」
普通の父親みたい…そう言おうとして口をつぐんだ。
そもそも普通の父親がどんなものか解っていない。自分の父親が普通ではない玲にとって「父親」というと、今目の前にいる自分の子どもたちの生みの親である夫の姿しか知らないのだ。
「嬉しかったんだよ。あんなお義父様の姿、初めて見たよ」
「私こそ、びっくりよ。…確かにね。笑ってらしたわ、珍しく。ひょっとして…死期が近いのかしら?」
人間は気が弱ると急に人に優しくなるものだ…と玲は解釈している。ゆえに玲にしてみればその言葉も冗談を言っているつもりでもなかった。
「またそういうことを…」
笑って受け流す泰英だが、しかし時折こういった殺伐とした発言をする妻が「たまらなく好きだ」と不謹慎な下心満載のMな夫であった。
「らしくないことなさるからよ。でも…あんな姿も、たまには悪くないかもね」
丸くなったのね…と言って小さく笑う玲。
「それなのに…? 浮かない顔してるね」
「あぁ、違うのよ。ちょっと、昔のことを思い出していて…」
「昔?」
「ほら、明日香さんに会ったでしょ。聖(ひじり)お兄様の奥様の…」
奥様…と言って考える。かつてのご学友であった『巻き毛のオスカル』こと〈西園寺明日香〉は、今や玲の末の兄嫁である。認めていないわけではないが、何年経っても違和感は拭い去れない。
「あぁ、割烹料理店で女将をやってる…綺麗だよね、和服も似合って…」
一瞬遠い目をする。
「あら…」
「ぁ、そりゃ、あきらちゃんにはかなわないけど…!」
「別にいいわよ」
そうは言っても、そのうろたえる姿に鞭を振るいたくなる衝動が沸き上がる玲。
(今日は、ちょっと生温かったかしら…)
数分前を振り返るが、気持ちはやはり宙を浮いていた。
「彼女がどうかしたの? 高校の同級生…なんだよね?」
「えぇ。…だから、ちょっと」
「感傷にひたっちゃった…?」
「そういうわけじゃないの…」
感傷にひたるような思い出などあるわけがない。
「明日香さんのことを思い出していたわけではないのよ。今の私をあの頃の私が見たら、なんていうかしら?…と思って、ちょっとおかしくなっちゃったの。歳を取るってこういうことかしら…」
それはひとりごとのように語られた。
「仲良かったんじゃないの? 随分親し気に話してたじゃないか」
「あぁ、明日香さん? あちらはどう思っていたのか知らないけれど、私はそんなつもりでおつきあいしてはいなかったわ。それは明日香さんに限らず、だれともね。でも…」
確かに「親し気に」会食のあと呼び止められたのは事実。
〈玲さん。今度、時間を作っていただけないかしら…〉
と、神妙な面持ちで改めて会うことを約束させられたのだ。
〈構わないけど、どんな御用かしら…? なんだか怖いわ〉
それは皮肉のつもりだったのだ。だが、
〈お家の一大事ですわ、玲さん。改めて連絡させていただきますわね〉
鬼気迫る目ぢからで、なぜか周りを避けるように小声で囁き去って行ったのだ。
(お家の一大事って、いったいなにかしら…?)
これと言って明日香と共通の話題などない。しかし「お家の一大事」と言われてしまっては、まったく関係ないとは言いきれないだろう。
玲の知らない〈お家の事情〉があるのだろうか。それとも…。本当に父親の死期が近い…? とか…?
(まさかね…)
「なにか、お話があるみたい。子どもたちの年も近いことだし、進学のことかしらね…」
空々しく答える。
なんとなくだが、明日香の様子からそんな話ではないことは玲自身気がついていた。だが、この面倒そうな話題をやり過ごしたい玲の本音は、これが一番差し支えない答えなのだと思えた。

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明日香には、今年11歳になる〈貢(つぐみ)〉と10歳になる〈中(かなめ)〉という年子の息子がいる。下の子は玲の次男〈育人(いくと)〉と同い年だ。おそらく、玲の兄たちのように英才教育や帝王学を叩きこまれ、雁字搦めにされているのだろうと想像をしていたのだが、どうやら公立の普通の学校に通っているようだった。よくよく考えてみれば、末の兄は上のふたりの兄ほど勉学に興味もなく、それほど厳しい教育を受けてはいなかったかもしれないと思い出した。
「ふーん。そうなんだ」
当時の話を詳しく聞かされたことのない泰英は興味津々ではあるが、いつもなんとなく流されてしまうのだった。
「望お兄様は、結婚なさらないのかしら」
「どうしたの? 急に」
唐突な玲の言葉に、またはぐらかされたのかと訝しむ。
「環(たまき)お兄様のところに子どもはいらっしゃらないし、このままだと御門の跡継ぎは、明日香さんのところになるのかしら…と思って」
長兄の望は今年で46歳になる。未だ焦ることなく仕事に勤しむ姿は感心するばかりだが、果たしてこのままでいいのだろうかと心配にもなる。次男の環に至っては自分のことばかりで望ほどの意欲は感じられない。
「あぁ、そういうこと。それを言うなら、うちの学人(まなと)や育人にだってあり得ない話じゃないんじゃないの?」
〈御門グループ〉の幹部のほとんどは身内だ。とはいえ、すべてが重要なポジションにあるわけではない。厳しい父親のもと、それだけの人材が必ずしも身内にいるとは限らないのだ。そう考えれば、若い子どもらに将来の期待をかけることもあり得ない話ではない。が、
「ありえないわよ。そのつもりならとっくに声がかかっているだろうし、あの子たちにそんな重責を負わせたくないわ」
玲らしからぬ謙虚な意見ではあるが、御門家の人間として兄たちを見ていた玲が第三者的に母親の意見を述べるなら、それは当然の言葉と言える。
「そうなの? いい就職先だと思うけど…」
「うちはどうするのよ。あなただって曲がりなりにも社長なのよ? もう少し考えてほしいものだわ」
「あぁそうだね。でも僕は、家業を押し付けるつもりはないんだよ。あきらちゃんは想像できる? 自分の息子が僕のような生活をすること…」
出会った当時の泰英は性的趣味も手伝ってかラブホテルの物件を一手に請け負い、その手の物件を性欲的に手掛けていた。現在はそこまでではなくとも、まったく扱っていないわけではない。
「やだ、想像させないでよ。あの凛々しい学人が? ラブホテルを嬉しそうにプロデュースするっていうの? あの賢そうな育人が? 薄暗い部屋の設計をするわけ? つぶらな瞳の介人まで? ダメダメ、ダメよ」
考えられない…とかぶりを振って打ち消す。
「いや、うちの会社ラブホテルだけじゃないし…」
苦笑いの泰英。
「だって『僕のような生活』って言ったじゃない」
「それはモノのたとえで…。あきらちゃんは僕の仕事が気に入らないの?」
「そんなこと言ってないわ。あなたの言い方の問題なのよ」
「ごめんよ。でも、やりたいことがあるならそれを応援したいんだよ、僕はね。まぁ、学人が就職するまではあと10年はあるし。」
長男の〈学人〉は13歳だ。まだ将来は解らないが、普通に考えれば大学を出て就職するまであと10年。
「それを言ったら、明日香さんのところだって同じようなものよ。上の子は育人と同じくらいだもの」
「そうなの? この前はもう少し大人に見えたんだけどな」
「躾がよろしいのでしょう? あそこは明日香さんのばあやが一緒にいらっしゃるし」
「ばあや? ばあやっておばあちゃんのこと?」
「ばかね。まぁ、お年を召した方には変わりないけれど…幼いころから身の回りの世話をしてくださってる方よ。明日香さんの御実家は老舗の和菓子店で、明日香さんが小さい頃はまだ先代が現役でいらしたし、ご両親とも職人として忙しくしていらっしゃったから…代替わりした後は、弟さんにかかりきりだったし。代わりに面倒を見てくれるばあやが必要だったのよ」
学校から帰っても母親といる時間も少なかったのだろう。学校は違ったが、小学校の低学年の頃はよく家に訪れてきていたことを覚えている。玲の父親の経営するホテルで西園寺家の和菓子を扱っていた付き合いから、幼少の頃よりふたりは面識があり、他の取り巻きたちよりも付き合いが長い。「玲の話し相手」という建前ではあったが、立場的には逆だったのかもしれない。
「へぇ…。本当にお嬢様なんだね。玲ちゃんにはいなかったの?」
「いたわよ、3人。教育係がね。でも家を出る時に遠慮してもらったのよ。私は自由になりたかったし…」
「3人? 3人もお年寄りが…?」
「やぁだ。そんなわけないじゃない…教育係よ? 家庭教師みたいなものよ、あなたにもいたんじゃなくて?」
伝統ある家柄の跡継ぎであればそれを継承できるだけの帝王学を、地位や財産があればそれを守るだけの教養を身につけなければならない…と、少なくとも玲はそれを強いられ育てられてきた。
「いやぁ、僕は勉強嫌いだったし…そこまでは。僕の父は現場主義というか」
「あら、そうなの? ふぅん…まぁ私も大した教育を受けたわけではないけれど」
夫も似たような境遇だからこその意見ではあったが、自分のたどった道がすべて…というわけではないのかと世間知らずを再認識する玲。
「あきらちゃんは特別だから…」
それを汲んで、やんわりと持ち上げてくれる泰英を「かわいい」と思う。
「まぁ、ひとりは運転手…だったんだけれど。いつも車の中で〈研ナオコ〉を聞かされたものよ。それもどういうわけか、いつも同じ曲から聞かされたのよ。小学生の子どもによ?」
「あぁ、だから十八番なんだね」
意外な玲の素顔というところだ。
「そういうわけじゃないけれど、私音楽は〈ラフマニノフ〉と〈エルガー〉だったから…唯一の歌謡曲だったのよ」
「へぇ…まだまだいろいろ知らないことがあるんだね」
少し寂しく思う泰英だったが、それは玲にとってはあまりいい思い出ではなかった。
「あとは、ロッテンマイヤーさんのような四角四面のお堅い元教師と、お父様行きつけの高級クラブのママ」
「ろってんまいやーさん?…に、ママ」
ひとりは外国人だったのか…と、受け取る泰英。

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「ロッテンマイヤーさんよ、知らない?『アルプスの少女ハイジ』の、ゼーゼマン家の養育係。私オッペンハイマーが好きじゃない?」
「あぁ、あきらちゃんが唯一好きな白ワイン」
「そう。好きなんだけれど…ついでに思い出しちゃうわけ、ロッテンマイヤーさん」
「ぇ? ハイジを?」
「家庭教師を、よ。響きが似ているでしょ? オッペンハイマーとロッテンマイヤーさん。だから、大嫌いだけど思い出しちゃうの。ほら、私の子ども時代って思い出が希薄じゃない? だから記憶の中に『研ナオコ』とロッテンマイヤーさん似の家庭教師と、みゆきママしかないの。思い出すだけでかわいそう…もうそんなことはどうでもいいわ」
玲は当時を思い返すと同時に、いやな記憶も蘇ってきた。
(どんな人が来たところで、お母様ではないんですもの)
「でも、明日香さんはさみしかったでしょうね…」
(お母様がちゃんといるのに、構ってもらえないなんて)
「あきらちゃんはしっかりしてるもんね」
今の玲は、無邪気な夫に救われている。
「…でもいずれ、巣立つことも考えなければいけなくなるのね。私たちも親なのね…」
我が子にはそんな思いはさせたくはないと、急にしんみりとしてしまう。
「そうだね。まだ早い気もするけど、すぐなのかもしれないね」
「子どもの成長は早いわ。私たちもそのつもりで心の準備をしておかないと…。その前に、羽子(わこ)の進学をなんとかしないとね」
「あはは…それはあきらちゃんにお任せするよ。僕負けちゃうから…」
玲は母親を知らない。物心がつき、多感な時期も思春期も子どもを産む時でさえもずっとひとりきりだった。だが、母を知らないからといって我が娘に、自分と同じ思いをさせるつもりはさらさらない。むしろ手厚く見守っていてやりたいと思っている。ただ、思いと行動が伴わないのは、どうしようもないジレンマ。
(さて、どうしようかしら…)
だから玲はいつも、真実と操(みさお)のやり取りを羨ましいと思って見ていた。羨ましいからといって自分に、同じことが出来るとは思ってはいない。ただ、それは「一家庭の姿」ひとつの見本として捉えていた。
明日香がどんな話を持ち掛けてくるのかは想像もつかなかったが、本当に子育ての話をするのなら、そんな話をだれかとしてみたいと思う玲だった。
「そうだ、あなた。どうせマンションを建てるなら『女性専用マンション』なんてどうかしら?」
「女性専用? また、急だね」
「お兄様はどの程度の規模で考えているのかしら? でも社宅になるような…っておっしゃったのよね? 何棟くらい建てる気かしら?」
仕事の相談をされたことで、玲は急にやる気が湧いてきたらしい。
「んー聞いてみないと解らないけど、1棟ではないみたいだね」
「だったらそれもありじゃないのかしら。家族用と、女性専用にすれば、独身女性も安心できるだろうし…最近、多いのよ。静かなところがいいけれど、治安が気になるっていう女性利用者が」
「へぇ…。いいかもね。あきらちゃんの発想にはいつも感心させられるよ」
急にやる気を出した玲に「ちゃんと話、聞いてたんだね」…とは言わない泰英だった。

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