ガラスのハート

壊れる時 後編

やっとの思いで嫁ぎ先を出た。毎日が楽しかった。
箱入り娘で、ひとり暮らしをしたことのなかった私は、アパート暮らしができることに期待を寄せ、またなんとかやれている自分が嬉しく、毎日が楽しくてしょうがなかった。でもそんな日々はわずかだった。
私は、今度は夫の行動に怯えることになるのだ。

夕方、夫の帰ってくる時間が恐怖だった。
(なに話そう…)
そう、夫との間に会話がなくなっていた。
結婚して3年、新婚時代こそそれらしいしあわせな会話があったのだろうが、娘が生まれてから2年余り「義母とのやり取りの報告」が夫との唯一の話題になっていた。いつの間にか私の口からは義母の悪口を言うことしか、夫と会話を弾ませることが出来なくなっていたのだ。
夫はどう感じていたのかは知らない。「新婚みたいに仲良く暮らそう」なんて言ってはいたが、ふたりになってみて、共通点のない私たちの間には気まずい空気が流れていたように思う。

アパートに移り住んだ時、夫は「もう二度と戻らない。未練もない」とそう言っていた。嘘だと思った。おまけに、自分が実家に帰らないのだから「オマエも自分の実家には世話になることも、帰ることもするな」と言われた。勝手だと思った。
案の定、2週間もたたないうちに夫は「娘を連れて実家に行ってきていいか」と言った。やっぱり嘘だった。私はしぶしぶ許すしかなかった。それから毎週末、調子に乗った夫は娘を連れて実家に寝泊まりするようになった。

なにが新婚夫婦のように、だ!

娘が心配だったが、私はどうしても一緒に行く気にはなれなかった。2度とあの家の敷居をまたぐまいと心に誓ったからだ。だからついて行かなかった。夫も、結局はあの家の人間なのだと確信した瞬間だった。
そのうち、娘を取られてしまうのではないかという不安が湧いてきた。

義母は機嫌が悪いと、扉の開け閉めがとても激しくなる。私は大きな音が鳴るたびに「あぁ、またなにか気に入らないことをしたのかしら…」と自分を責めていた。嫁ぎ先を出てもそれは続いた。夫の帰宅の音が私を責めるようになったのだ。
夫は甘ちゃん育ちの私が「すぐに値を上げて、家(嫁ぎ先)に帰ろう」と言ってくると高をくくっていたのだ。

そんなことあるわけがない!

「ほら、やっぱり実家(嫁ぎ先)はいいところだろう」「どれだけ自分たちが助けられていたか解るか」と用意していた言葉を言いたくて仕方がなかったのだろう。だが、私はアパート暮らしが楽しかったし、この生活を失いたくないので夫に何も言われまいと、日々の生活に細心の注意を払い、文句の言いようのない家庭を作ることに躍起になった。
夫は楽しそうな私が気に入らないようだった。いつしかそれは義母と同じように、大きな音で私を苦しめるようになっていったのだ。

ある日の週末、娘が見慣れないおもちゃを持って帰ってきた。その週は珍しく、土曜の朝から出かけて行った。おかしいとは思っていたが、週末の生活に慣らされていた私は「油断していた」としか言いようがない。
それは、自宅から数時間かかる都心のテーマパークのキャラクターのぬいぐるみだったのだ。私は愕然とした。と同時に、体中の血液が逆流し、ぐらぐらと煮えたぎるような怒りを全身に感じた。
毎週末泊りに行っているだけでも不快だというのに、夫は義父母や自分の家族と私の娘を連れて行楽地に行っていた。開いた口がふさがらなかった。いつも「忙しい」が口癖の夫が、あろうことか私とも行ったこともないテーマパークに娘と楽しい思い出を作りに出かけていたのだ。
私は問い詰めた。「ふつうそれは、家族とすることじゃないの?」かと。うっかり口を滑らせた夫は「オレの親は家族じゃないのか」と語気を荒げ、私の気持ちを逆なでした。

 じゃぁ私はなに? この子はわたしの娘です!

娘の楽しい思い出の中に、母親が不在でもいいというの!」
「子どもにとって母親は最初の教科書じゃなかったの?」

「この子の母親はわたしなの!」

呆れてモノも言えないとはこのことだ。私の中にもそれなりに計画があったのだ。娘と初めてのテーマパーク…そんなささやかな夢さえも、一緒に住んでもいない義父母に奪われたのだ。悔しくて涙も出なかった。

そんなことがあって私は夫を信じられなくなった。本当は夫はあの時、私をあの家から遠ざけ、こんな生活をするために「家を出よう」といったのか…とさえ疑うようになった。

ある晩娘が光熱を出し、私は病院へ行こうと支度をしていた。酔っぱらって帰って寝ていた夫は、私が「娘を連れて出て行こうとしている」と勘違いし、無理矢理私から娘を奪おうとした。私は力いっぱいそれを阻止し、酔っ払い相手に芝居を打つことにした。
「やめてーっ!」
「ぶたないで! なんでこんなことするの! 痛いっ、痛いーっ!!

できる限り大声で叫んだ。できれば近所に聞こえればいいと思った。
その声に我に返った酔っ払い(夫)は当然記憶がなく、泣きじゃくる私に「悪かった、酒は控える」と言って謝った。だがそれも、守られることのない約束だということは解っていた。

夫は寝起きが悪く、酔って帰ってくるときも例外ではない。朝起こすのもひと苦労で、怒鳴られることもしばしばだった。だから手が出てもおかしくはないのだ。それから時折、私は芝居をすることを覚えた。酔いがさめると夫は「冗談はよせ」「からかうな」と言った。実際こちらが騒ぐとそれを止めようと力づくで向かってくるので、手首や顔にあざを作ることなど容易だった。

ある時些細なことで大ゲンカをした。売り言葉に買い言葉とはよく言ったもので、夫はとうとう言いたくて仕方のなかった言葉を口にした。
「オマエは甘ちゃんだから、すぐ値を上げると思ってた」
「すぐに家(嫁ぎ先)に帰ろうというと思った。だから家を出た」
オマエは長男の嫁としての自覚があるのか!
とうとう来たと思った。怒りに任せて胸のつかえを吐き出す、目の前の夫に「よかったねぇ」と称賛してあげたいとさえ思った。母親という「教科書」を手放せないのは、夫の方だったのだ。

そして私も、不覚にもその言葉にあおられ「あの家に帰るくらいなら離婚する」と言ってしまっていた。
あなたがあの家に帰りたいと言ったときは離婚するときだと思っていた
このうっかり口にした言葉が、結果的に私の勝利宣言になった。

「は? オマエは最終的にはオレと離婚するつもりなのか…?」
そういわれてしまったときは「しまった」と自分を叱責した。だが、夫よりも幾分冷静だった私は、この次の夫のひとことに一筋の光を見た。

「最終的に離婚するつもりでいるなら、
今別れても同じじゃないか・・・・」

ニヤリ・・・・
まさに私はそんな表情をしていたかもしれない。夫に気づかれずに・・・・

なら、別れよう
私のその言葉の裏には「今なら子どもをとれる…!」という確信があった。娘はまだ2歳。言葉もたどたどしい幼児だ。そんな幼子を母親の私から奪えるものなどない・・・・! その時の私の頭の中では高笑いがウエディングベルの如く響いていたことだろう。
いつか夫が「実家(嫁ぎ先)に帰ろう」と言ってきた時のため、私は用意周到に「離婚してください」のひとことを準備していた。そしてそれまでに、娘をうまく調教するつもりでいた私には、夫のこのひとことが魔法の言葉…まさに「してやったり」だった。

それからの私は、話し合いのたびごと「別れる」と「離婚」のふたこと以外は発しなかった。へたに言葉を発すれば、引き伸ばされると思ったからだ。
「子どものために両親は揃っていた方がいいと思わないのか」
母親を差し置いて旅行に行っておきながらよく言えたものだ…)
「オマエがいやなら、今まで通り別居して、たまにオレが帰るだけでいい
(そうやって娘を調教しようとでも言うのか…今さら許すはずがない…)
「せめて親権だけでもオレにしておけば、将来は安泰だ」
財産なんていらない…とにかくあなたと、あの家から解放されたい!)
当然ながらそれらの言葉はまったく響いてこなかった。すべて守られることのない、その場しのぎの言葉、なんて薄っぺらい男なんだろうと思った。

しかし私も母親。娘から父親を奪うことに抵抗がなかったわけではない。だが、娘の記憶の中には夫にいじめられている母(私)しか残ってはいなかった。私の必死の芝居が娘の記憶に強く印象付けられたのだ。

家を出ていたことも味方してくれた。プライドの高い義母がこちらに出向いてくることなどありはしなかった。ゆえに、私たちの話に義父母が介入することはなく、私は今や「ホーム」と化したアパートで流暢に、かつ冷静に、離婚をすすめることが出来た。
「母親は最初の教科書」そう言っていた夫が、娘を私から取り上げられないことも承知していた。その上で私は「離婚」の決意を新たに半年頑張った。
「慰謝料も、手切れ金も、一切入りません」
「今後一切私たち母娘に関わらないでください」
「離婚届に署名し、持ってきてください」
離婚届を自分で準備することが不利になると、私は知っていた。だから気持ちが決まったのならそのように事を進めてくれ、「離婚届は私が出します」と述べておいた。

お金のことや、そのあとの生活なんて「なんとでもなる」と思っていた。このまま娘に笑顔を見せられない母親になるより、貧乏でも母娘仲良く暮らしたほうがどれほど幸せだろうかと、そればかりシミュレーションしていたのだ。少々わがままかもしれない私の夢は叶った。

義父母は裁判に持ち込もうとしていたらしい。だがそこも、世間体を気にして「静かに処理したい」むしろ「なかったことにしたい」と判断したのか、そこに至ることはなかった。
夫は「裁判になればオマエに勝ち目はない」とも言っていた。そんなわけはない。すべては私に都合よく運んだ。まるで地球は私のために廻っているんじゃないかと錯覚するほどに・・・・そうして私は解放された。

まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します