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小説『オスカルな女たち』8

第 2 章 『 核 心 』・・・4


   《  赤い部屋  》

玲(あきら)は、コツコツとアスファルトを叩くハイヒールの音が好きだ。
だから、子育て中だろうと骨を折ろうと、8センチ以上のヒールを欠かさない。それは箸より重いものを持たせられたことのないお嬢様の自分から、自身の価値を認めようとしない父親に対する意地からなのか、物心ついた頃よりの玲のプライドとも言えるポリシーだった。
最も高いピンヒールを響かせるのは月に1、2度、子どもたちをベビーシッターに預け、とあるマンションに向かうのがここ数年の玲の日課になっていた。誰に見られて困るわけでもないのにサングラスをかけ、いつもよりも緊張した脚運びで・・・・。

ここは最寄り駅からもしたたか距離のある、自家用車必須のおよそ人が住みたがらない立地の住宅地だ。ついと見上げたマンションは、玲の夫が所有するここ数年できたばかりの6階建て店舗・賃貸併用の多層階住宅。壁の白さが未だ景観になじんでないのが、この辺の静けさを物語っている。最近では戸建ての住居もちらほら建ち始め、人の姿も見受けられるようになってはきたが、付近はまだまだ開発途中で雑然としており、コンビニエンスストアもスーパーも見当たらない。この賃貸マンションも、駐車場の使用状況を見る限り、入居者より空き部屋の数のほうが多いだろうと想像できる。
(…相変わらずひと気のないところね)
玲はいつも、少し手前でタクシーを降り、10分程度歩いてこの場所にくることにしていた。コツコツと響くヒールが、まるでスイッチを入れ直すカウントでもあるかのように、その10分間が玲には必要な時間だった。
1階には居住区の駐車場と、レストランが開ける程度の広いフロアが設けられている。店舗併用といってもまだ空き家の状態で、大きなガラス窓にはビニールが貼られたままになっている。もう少し人の出入りが増えたら、事務所を移動するなり人に任せて飲食店を開くなりして使用するつもりでいる。そこはいずれ年老いてから晩年を過ごすつもりで、最上階に自宅を設け建設させた建屋だったが、最終的にどうするかという目的もなかった。
2階から4階までは各階3部屋ずつの賃貸になっており、エレベーターもそこまでになっていた。が、非常階段の重い扉をあけると、階段の踊り場正面にもうひとつ扉があり、そこに自宅までの別エレベーターが設置されている。将来、空き店舗が商業施設になったあかつきには地下駐車場を新設し、そこから最上階まで専用エレベーターを設置する予定だったが、あまりに閑散とした土地ゆえ、老後をそこで過ごすかどうかは未だ決めかねている状況だ。
玲はチェーンベルトのついた小さめのショルダーバックからキーケースを取り出し、階段奥のもうひとつの扉の鍵穴にそのうちのひとつを差し込んだ。そこはオートロックになっていて、扉は玲を飲み込むなり黙って施錠された。
最上階の自宅へ続く小さいエレベーターに乗り込むと、鍵を手にしたまま、サングラスを外し無造作にバッグに突っ込む。アップにしていた髪を解いて、片手で2、3度クシャクシャと手櫛を加え軽くかぶりを振った。
エレベーターの扉が開くと目の前に、マンションにしては広い玄関アプローチが広がる。さらに別な鍵をつまみ取り、玄関ドアを開ける。普通の玄関ドアに見えないのは、防音設備が厳重で少し重厚な造りになっているためだった。
閉じる音もまた重い。
入るなり、後ろ手にカチャリと施錠する玲。訪問客があるわけでもないプライベートスペースに誰が入ってくるということもないのに、さらにそれを確かめた。
ふぅ…と小さく息を吐き、すぐ脇にある大きめのシューズボックスの扉を開ける。開けると同時に内側に設置されたスポットライトが点灯し、その光で玲の明るい髪はますます赤みを増す。そしてその扉の中にはあるべきはずのもの(靴)はなく、ずらりと、およそ外には着て出掛けられそうにないイカレタ装束が並んでいた。
「さてと…」
言いながらショルダーバッグを小さな引き出しのついた棚の上に置く。チェーンの音がシンプルな玄関にシャラリ…と響いた。
ピンヒールから一旦足を外し、玲はおもむろにお気に入りの赤いコートを脱いだ。相変わらず均整の取れたボディーライン、産後とは思えない肢体から伸びる長い脚には、玲には珍しくない網タイツ。
「そろそろ新しいのがほしいわ…」
なんの躊躇もなくいつものように、そのいくつかのいかれたエナメルの衣装に手を伸ばし、2、3悩んだ末に着替え始めた。両手で腰のラインを確認しながら、再度ピンヒールに足を通す。そうして最後に、扉の内側に掛けられている輪っかにまとめられた3本のカラフルな鞭のうちの1本を手に、そのままL字の向こう側に続く部屋へと向かうのだった。
廊下を少し進んでいくと、床からお腹に響くような重低音が感じられるようになり、突き当りの扉を引くとクラブハウスのような音楽が漏れてきた。目の前のどん帳のような重いビロードのカーテンを掻き分けると、真っ赤な照明が目に飛び込んでくる。
「おまたせ…」
ボンデージ姿の玲は、ウェーブのかかったボリュームのある髪を片手で払うとポーズを取り、中央に置かれた楕円形のベッドに目を走らせる。その視線の先には、アイマスクをし、生まれたばかりの姿にネクタイとブリーフというあられもない姿をさらした中年肥りの醜い男が、興奮した様子で横たわっている。
すかさず玲は両手で鞭を弾き鳴らし、
「誰がベッドに上がっていいって言った!」
と、語尾を荒げて罵声を浴びせた。
「ご、ごめんなさい…」
慌てた中年男がベッドから転がり降ちる。
赤い照明の中つかつかと、中央に置かれたベッドに向かう。カツカツとヒールを鳴らしながら小刻みにその塊に近づいていく。
「おりこうさんにできない子はおしおきが必要ね」
先が幾重にも分かれた皮製の鞭を器用にひねり、束ねながら、転げ落ちてきたみすぼらしい男に近づくと、わき腹あたりを転がすように踏みつける。
「お立ち…」
目の前のベッドの周りに生活用品などはまったく見当たらず、右手には天井から床まで突き抜けたポールダンス用の棒に小さな円台と、その脇にはメリーゴーランドから取りはずしてきたかのようなメルヘンチックなユニコーンが一台。そしてベッドの左手の壁には、皮製の手錠がぶら下がるX字架がはりつけられており、その前には小さな分娩台のような形をした拷問椅子が置かれていた。
「ちょっと、いつまで寝てるの!」
「ごめんなさいぃぃ」
「おだまり!」
言いながら手首を回転させ、裸体の背めがけて鞭を打ちつける。
「…はぅっ…」
「なんなの? このパンツ…私に会うときは新しいものにしてっていつも言ってるじゃない!」
行いはハードだが、責め苦の言葉が「パンツ」だ。
「はい、ごめんなさいぃぃx」
玲はこの男の、この「ごめんなさい」が大好きだ。
「なんで言ったことを守れない!」
「ごめ、ごめんなさ、」
「聞こえない!」
「ごめんなさいぃぃx」
亀の甲羅のように丸まって謝罪の言葉を述べながらも、実に嬉しそうに興奮するこの中年男こそが、玲の夫〈水本泰英(やすひで)〉その人であった。
「もう…。みっともない格好さらさないでよ、神聖な場所が穢れるわ」
パンツ一丁の男を前に、なにをもって「みっともない」というのか、どれを取って「神聖な場所」と語るのか、それが新しいパンツでないことだけのための言葉だと思うと、実に滑稽だ。
「き、気をつけます」
素直にうなずくこの男も、また滑稽だ。
この厳重すぎる造りと防音設備は、当然外に音が漏れ聞こえないようにするためだったが、老後はともかくとして今ここは、泰英の趣味のためにあつらえた隠れ部屋と化している。
「さぁ、今日はなにから行こうかしら…ねっ!」
言いながら再度ピシャリと鞭を打つ玲。その瞳は煌々と意地の悪い光を放っていた。
「おっさん!」
「はいぃぃ」
「今週は学人(まなと)の父兄懇談会があるって言っておいたはず…忘れたとは言わせない!」
と、鞭を放ちながら言い捨てるも、意外に会話の内容は家庭的なものだ。
「今月は会合が多いので…」
チラリと玲を見上げる夫、泰英。
「だから反故にしていいとでも?」
歌舞伎の見得よろしく鋭い眼光で上から睨みつける。
「ごめんなさいぃぃ」
「それしか言えんのか! この豚が!」
勢いに任せて鞭を放つ。
「今回はエルメス程度じゃすまないよ!」
「ひぇぇ…っ」
「バーキン、いやパイソン、クロコ、…」
玲が言葉を発するたびに、ピシャリ、ピシャリと鞭が鳴る。
「この際だからドバイのチケットでも用意してもらおうか…?」
ピタリと動きを止めて、真顔で見下ろす。
「え?」
こちらも、冷水を浴びせられたような真顔で玲を見上げる。
「そ、それはちょっと、乳飲み子もいることですし…」
体を起こそうとするが、
「その乳飲み子ができたのは誰のせい!!」
すぐにその背中は玲のヒールの下に沈められた。
「はいぃいぃ…」
「まぁいいわ、ドバイは。来月はヴィトンの新作パーティーも控えてることだし…」
「お手柔らかに願います…」
背中以上に声も沈む泰英だった。
このなんとも奇妙なやりとり、奇妙ではあるがこれが玲夫婦の『日常会話』であり『夫婦の愛の営み』なのであった。夫婦円満の秘訣…といえば聞こえはいいが、一般家庭にはありえないコミュニケーションだ。
そもそも玲が「拾ってもらった」…と言っていた若かりし頃、不動産王の息子である泰英はラブホテルの物件を一手に任されていた。任されていた、というよりは、その分野の物件を進んで引き受けていたというべきだろうか。ゆえに玲はベビーカーを引きながら、転々とあらゆるタイプのラブホテルを泊まり歩いていたのだった。最初は玲も面白がって、アルバイトをしながらその日の宿となる空いている部屋についての連絡を待っていた。安っぽいモーテルから小洒落たビルタイプまで、玲の知らないホテル業の裏側を目の当たりにしたのだ。退屈な毎日にうんざりしていた玲にはこうしたホテルが格好の遊び場になっていたことは言うまでもない。
とはいえ、さすがの泰英もSM専門のラブホテルにまでは案内していなかった。だが、クリスマスシーズンの繁忙期、空き部屋がなくどうにもならなくなったある夜、やむなく案内したSM専門ラブホテルで、玲は見事に開花したのだ。
〈なにこれ。おもしろ~い、馬の背中に棒が生えてる~〉
〈なにこれ、十字架じゃないの? X字架? ウケル~〉
〈なにこれ、分娩台みた~い〉
きゃらきゃらと笑いながら好奇心旺盛な玲は、すぐさま興味を示し、泰英に「試してみたい!」と懇願した。
〈え、あきらちゃん。こういうの趣味なの?〉
驚いたのは泰英だった。なまじその気がないわけではない泰英には、その玲の言葉が魔法の呪文のように聞こえたことだろう。とはいえ、言われるままに試してよいものかさすがに良心が痛んだ。
〈そうじゃないけど、ちょっとやってみたいじゃない?〉
〈う、やってみたい…の?〉
〈うん。おじさん、縛ってみてよ〉
〈縛ってって…簡単に言うなぁ…〉
無邪気な小娘を相手に内心ホクホクと心躍らせていた当時「おじさん」と呼ばれていた変態30男は、玲がどこのご令嬢でどんな素性の娘かということは重々承知していた。ゆえに、多少の下心はあったにせよ、本気で「どうにかしてやろう」とか、ましてやアパートをあてがって囲うつもりなどさらさらなかった。不動産王の息子とはいえ、所詮は四強の一角。御門グループに敵うはずもなく、その身内を手に掛け自分から破滅を呼び込もうなどと誰が望むだろうか。
しかし、わけありで子連れの玲をただ見過ごすのも気の毒に思い、しぶしぶ住処を提供していたというわけだった。
〈ねえ、明日からはずっとこの部屋でいい〉
アパートを貸さずにラブホテルを連れまわしたのにも、若い子なら「いつか襲われるんじゃないか」と自分を気味悪がって早々に逃げ出すと思っての苦肉の策だった。しかし、思惑とは裏腹に玲は喜んでついてくる。目を輝かせ、ベビーカーを引いて…。
幼いころから育ちの良いお坊ちゃまたちを見て育った玲、黒い噂も嘘かホントか数々の浮名を流してはきたものの、玲は決して面食いではなかった。
〈おじさんはできないの?〉
〈これはおじさんの趣味じゃないの?〉
〈それとも他の人がやるの?〉
あの意地の悪い煌々とした瞳を輝かせ、玲は泰英に迫る。
〈できなくはないけど、あきらちゃんは怖くないの?〉
〈趣味かどうかはおいといて…これがなんだか解ってるの?〉
〈あきらちゃんは一体なにがしたいの? 怪我、するよ?〉
言いながらも悪い気はしない。しかも若い玲の飛び切りの笑顔は泰英の理性をマヒさせるには充分だった。執拗に迫られ、教育上いかがなものかと困惑したものの、そこはM男の血が騒いだのか、はたまた変態が勝ったのか、泰英は若い女王様の誕生に難なく手を貸したのだ。

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〈いいかい?〉
〈うん…〉
〈口をあけて…。あ~…〉
最初は「ごっこ遊び」のようなソフトなものだった。
〈…あ~ン〉
服を着たままの若い娘にアイマスクをし、手錠でパイプベッドに両腕を拘束、スイーツを食べさせる、というかわいいものだった。しかし、もともと玲は美貌の持ち主だ。30を越えた健康体な変態男が、そんな無防備で若い獲物を前に「ごっこ遊び」だけで満足がいくはずもなく…
〈あぁ、あ、あきらちゃん!!〉
矢も盾もたまらず襲い掛かったのだ。が、
〈ふざけんな、おやじ! 私を誰だとお思いい!!〉
と、見事に玲は罵声を浴びせて股間を蹴り上げた。
〈うぅぅ…あき、ら、ちゃん…〉
〈おっさん、ただじゃ置かないよ!〉
〈…ぅうん…。でも。いい…それ…〉
拘束されていても強いお嬢様の玲は、こうしてあっけなく主導権を握り『女王様』に早変わり。もともとお嬢様の玲に素質がないわけはなく、なるべくして『女王様』になったというわけだ。
〈あきらちゃん、鞭使ってみる?〉
〈ホント? そうこなっくっちゃ…!〉
自動的に部屋を間借りしてくれる下心満載の「(変態)おじさん」は、秘密の趣味を共有できるわけありな「彼氏」に昇格したというわけだ。こうして仕事をすることもなく、住む家も高級マンションを用意してもらい、夜は彼の管理するSM専門ラブホテルに通うという奇妙な玲の生活が始まった。
〈おじさん、新しい鞭がほしい〉
〈じゃあ特注で作ってあげるよ…〉
この変態ながらも愛しいおじさんに、なに不自由なく手厚く身の回りを世話してもらったおかげで、日中は充分に子どもと関わることができた。そこで玲は、自分が子育てに向いていることを知る。
そうこうしているうちに、長女の羽子(わこ)は保育園に上がるか上がらないかといった微妙な幼児に成長していた。そんなある日、
〈おじさん、私、妊娠した〉
〈…え?〉
〈え? じゃないでしょ、どうしてくれんのよ!〉
〈そうだねぇ…〉
〈おっさん! しらばっくっれて中出ししてんじゃねーぞ、おらぁぁぁx〉
いつもより激しく鞭打たれながらも泰英は意外と冷静に、
〈じゃ、じゃ、結婚する?〉
と、いうに事欠いてものすごい提案をした。
〈え?〉
泰英特注のピンクの豹柄ボンデージを身にまとい、玲ははたと考える。
〈結婚、だよ…?〉
玲には思いもよらない言葉だった。
〈あきらちゃん、もう、やめられないでしょ、それ…〉
おそるおそる「それ、」と鞭を指差し、これがまさかのプロポーズとなったのだった。もちろんそんな闇過ぎるなれそめを幼なじみである真実(まこと)や、ましてや格式高い御門家の親族に言えるわけもなく、その後はいろいろと逃げ口上を画策されたわけだが、
〈そうねえ…。この生活がずっと続けられるなら…結婚してあげてもいいわ〉
どこまでも『女王様』な玲のウエディングエピソードができあがったというわけだ。
ちなみに閑静な住宅地に建てられたこの隠れ部屋は、玲が初めて入ったSM専用ラブホテルを模して泰英が自らプロデュースしたものだった。初心を忘れないため…というより、それはふたりの初めての夜を演出した思い出深い場所であったため、10周年の結婚記念日に泰英が玲にプレゼントしたものだった。50を目前にそれなりに業用で顔が知れてきた泰英が、キャバクラ通いならまだしも夫婦でSM専用ラブホテルに通っているなどと、失脚しかねないスキャンダルが持ち上がればいろいろと支障が出る。そのため夫婦の楽しみはしばらくお預けになっていたというのもきっかけのひとつではあった。それよりもなにより退屈を嫌う玲がいつ「離婚する」と言い出すとも限らないと、泰英なりの愛情表現でもあったのだ。

「何度も何度もダイエットさせやがって! もう子どもは打ち止めだからね!」
今日は産後初めての夫婦のデートであった。
「ひぃぃx…」
「いつまでもいい身体保つのも限界があんだよ、おっさん!」
「はいぃぃ…」
「エステの回数増やすぞ、こら」
なんとも現実的な罵声を浴びせながら、その都度ピシピシと鞭が鳴る。
こうして玲は堅苦しい生活から逃れ、打たれるのが大好きな不動産王の夫のもとに嫁ぎ、快適な暮らしを送っているというわけだ。
玲のナイスなボディも、夫婦の過酷なスポーツの賜物というわけだ。

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「ふう…さっぱり」
プレイ…もとい、夫婦の激しい子育て談議の後は、最上階のガラス張りの素敵なジャグジーでふたり、シャンパンを片手に今後の明るい家族計画のための会議を開く。
「この辺、ちっとも栄えてこないじゃない」
「…そうだねぇ」
「下のテナントもいつまでも空にしておいては宝の持ち腐れよ?」
なかなか現実的な会話だ。
「そうなんだよねぇ…かといって、事務所を持ってきたんじゃまだまだ不便だし…」
いつまでも閑静な周辺をもどかしく思う泰英。
「いっそのこと秋山にでも言って、コンビニでも建てさせる?」
秋山とは、夫の不動産業と提携するハウスメーカーの営業マンだ。加えて玲にご執心、それを知らない泰英ではなかった。
「いやいやいやいや、まだまだあいつに甘い汁は吸わせないよ」
意外にも冷静に仕事の付き合いを考えているようだが、半分は嫉妬で、半分は意地悪に過ぎない。
「でもねぇ…」
シャンパンのおかわりを継ぎ足しながら、
「…御門の父にでも言って鉄道でも引いてもらおうかしら」
突飛なようだができないことではなかった。
「それは、それで申し訳ないよ」
「やだ、本気にしないで。もう何年も口を利いてすらいないのに、そんな豪勢なお願い、聞いてもらえるわけないじゃない」
「そ、そう?…まぁ、いずれは誰かがやるだろうしね」
夢のような会話をしているようで、玲が一声かければ現実にもなりかねない実に上流階級な雑談である。
「もう少し待って、それでだめならまた考えようよ」
「そうね、まだしばらくは、このまま秘密がいいわ」
ニコニコとシャンパン片手にかわいいことを言う。そんな玲を泰英は愛おしいと思う。
「この辺にビルなんか建っちゃったら、この程度の高さでこの日当たりは望めないかもしれないしね」
言いながらガラスの向こうの日差しを仰ぎ見る玲。
「そうだね、しばらくはふたりの秘密にしておこうよ」
子どもの隠れ家よろしく、大人の秘密は実に壮大で艶かしい。
「…ねぇ、あなた。男の人って、いつでもどこでも女を抱きたいわけじゃないのかしら?」
ふと、前日の出産祝いパーティーのことを思い出し、疑問を投げかけてみる。
「な、なに…? きゅうにどうしたの?」
「あなたみたいに…50を目前にして、いつまでも元気な人って、あまりいないのかしらね…? ひょっとして、無理してたりするの? あなた、もう辞めたい?」
それは玲にとってはホンの疑問に過ぎない言葉だったが、問われる夫にとっては「引退宣言」か「退去勧告」のように響いた。
「ど、どうしてそんなこと急にいうの? 僕に飽きちゃったの?」
思いのほかうろたえる夫に、
「やだ、そうじゃないわよ。ただ、自分たちがそうだからといって、他の夫婦も満足しているってわけじゃないことが解っただけ…」
「ふ、ふ~ん。…満足してるんだね、あきらちゃんは」
こんな時も泰英は、玲の放つ言葉の中に、なにを言われるかとビクビクしてしまう。
「そういうこと…かしら、ね」
玲は口では言わないが、そんな夫の姿を見るのが大好きだ。
「大丈夫よ。あなたがリタイアするまで、私はつき合うわ」
そう言って小さく微笑んだ。
「そ、そう? でも…」
リタイアしたら捨てられてしまうのだろうか…と、静かに玲の表情を読み取ろうとする泰英だったが、端正な顔立ちの妻を前に「美しい」「かわいい」という単語しか浮かんでこないオヤジのスケベ脳に、そんな高等な技が使えるわけではなかった。不動産王と呼ばれる男も、見目麗しい妻の前では仔猫ちゃんも同然である。
「そ、そういえば…。この前、仕事先で望(のぞみ)兄さんに会ったよ」
玲には3人の兄がいる。玲の兄を泰英が「兄さん」と呼ぶのは当然のことなのだが、3人とも泰英にとっては年下だった。
「あら、そう」
玲の顔が途端に曇る。身内(実家)の話は、あまり関わりたくない玲には本来はタブーだった。だが、
「なにか言ってた?」
話を持ち出すにはなにか、意図があるのだろうと返す玲。
「今度会食があるから出席するように…って」
おずおずと、申し訳なさそうに答える。
「出席するように、ですって!?」
偉そうに…とつぶやいて指を噛む。
「いや、いかがですか…だった、かな」
そういうことじゃない…と玲にたしなめられ、途端に弱腰の泰英。
「もちろん、断ったんでしょうね…?」
眼光鋭く切り返す。
「いや…それが…」
「まさか、」
「いいですね…って」
「言ったの?」
「いっちゃった…」
「いいですねって? もう…!」
「だって、望み兄さんだよ?」
「しっかりしてよ、あなた」
「だって、望兄さんは…」
「わかってるわ。怖いのよね、顔が…」
「ぅ…ん」
「そんな弱気でどうするのよ?」
とはいうものの、一般にいわれる兄妹と違って幼少の頃から関わりもほとんどないことから、玲にとっても3人の兄たちは脅威ではあった。
8つ上の長兄〈望〉は有名大学を出たあと、イギリスに留学しホテル業界のノウハウを学んだ。会話どころか、家の中で会うことすら難しいような存在で、幼い頃の記憶も薄い。玲の中では父親と同じくらいに遠い存在だ。そしてなにより、顔が怖い。
「せめて環(たまき)兄さんだったら…」
「あぁ、あなた。どうせいつもの調子に乗せられて、結局同じよ」
6つ上の次男〈環〉は同じく大学を卒業した後、アメリカの大学でマネージメントについて学び、帰国時には金髪の伴侶を連れて帰った。堅物の望と違い弁の立つ、今風でいえば「チャラ男」だ。
「そ、そうかな」
「そうよ…」
あぁめんどくさい…と、玲は幼い頃の記憶と共に優秀な兄たちを思い出す。
玲と違って兄たちは、幼少期より常に父親と共に在り、本人たちが窮屈と煩わしさを感じていたとしても、当時の玲にとっては羨ましい姿でしかなかった。末の玲は唯一の娘だと言うだけで、ちやほやされることはあっても特に事業に切望されることもない。ただ「それなりの身分の相手と結婚しなければならない」というお家の都合に縛られているだけだった。
それは早くに母親が他界したために御門家は男所帯で、だれひとりとして玲を気遣う者がいなかったせいである。いつしか自分を「必要のない子」と位置付けるまでにもそう時間はかからなかった。
「でも、聖(ひじり)兄さんのところも来るらしいよ。おともだち…だよね?」
それには答えず、ため息を返した。
今や『巻き毛のオスカル』の伴侶となっている三男の〈聖〉は大学へは行かずに板前修業に励み、全国各地を渡りその腕を磨いた。こちらは環と真逆で、寡黙と言えば聞こえはいいが、手先は器用だがひとには不愛想な男だった。
3人ともそれぞれに自分の道を選び、なんらかの形でグループに携わる教育を受け家業に貢献、活躍の場を得て今に至る。
「僕、お兄さんたちに嫌われてるんじゃないだろうか」
「大丈夫、あなただけじゃないわ」
実際、一番近い末の兄ですら4つ離れており、兄弟らしい会話を交わすことも少なかった。それほどまでに兄たちは忙しく、そして玲に関しては閉鎖的で、たまに一緒になる会食の席でも他人と過ごしているような、そんな緊張感だけが記憶に残るだけだ。
「介人(かいと)のこともあるし、今回は出席しようよ」
出産後、玲は未だ実家に顔を出していない。ひょっとしたら玲の父親は、娘の子どもが何人いるのかすら解らないかもしれないのだ。
「そうよね。…それより!」
思い出したように、泰英に空のシャンパングラスを差し出す玲。
「子どもの学校のこと、もう少し真剣に考えてよ」
今日の議題は「子どもの教育について」だった。
「以後気をつけます…」
「どれだけ寄付してたって、夫婦揃って顔出ししていないとうるさいんだからね。学人(まなと)は中高一貫だからまだいいとして…羽子(わこ)よ、あのこ、進学どうするつもりかしら…そろそろ進路相談が始まるわ」
「微妙な年頃だよね…。上の大学行くんじゃないの?」
「そんなつもりないわよ、だいいちあの成績じゃ…。理系だとばかり思っていたのに、思いっきり文系だし…このまま適当な子会社に就職…」
言いながら自分の高校時代を思い返したのか「それはだめね」と否定する。
「なにか特技はないの? 夢とか、やりたいこととか。女同士なんだからそういう話…」
「この際女同士とかは関係ないから。だいたい、そんな人間らしい言葉聞いたこともないわよ。『ただいま』『腹減った』『いってきます』の3つを話せばいいほう。最近じゃ返事はすべて『あいうえお』に長音符(ー)だけよ。この頃家に寄り付きもしない」
「あいうえおの、ちょうおんぷ?」
それは音楽関係の造語だろうかと泰英は頭をめぐらせる。
「そう。なにか聞けば返事は『あー』か『いー』。やりたくなければ『うー』に『えー』で、なにか喜ばしいときだけ『おー』だわよ。私はその返事に『青春あいうえお』と名付けたわ」
と、調子をつけて答える玲。
それに対し泰英は「ははは…」と苦笑いするだけだ。
「笑い事じゃなくてよあなた、父親としてガツンと言ってやりなさいな」
素敵なハイレグを身にまとい、ボコボコ、ボコボコいう泡の中で交わす、これが健康な夫婦の健全な会話だ。
「その気がないんじゃ無理なんじゃ…? 羽子ちゃん、あきらちゃんと同じで強いから、負けちゃうよ」
「大丈夫よ、普段の寡黙なあなたで行けば。ちょっとそれらしく偉そうに語ってやんなさいな」
そう、普段の泰英は実に寡黙で、実直な仕事のできる男だった。ゆえに子どもたちもぶれることなくすくすくと、お金持ちの子どもらしく上品に且つたくましく育っている。普段の玲も楚々として、貞淑な妻と化しているのだ。
「嫌われてるんじゃないだろうか…」
「馬鹿ね。今時の女子高生が、嫌いじゃないわけないじゃない」
「そうなの…?」
「そうに決まっているわ」
少々強引ではあるが、ちゃんと子どもの成長には真摯に向き合うなんとも健気な夫婦の姿。
「それって嫌われてるんだよね? やっぱり」
「だからそうだってば。でも、それとこれとは別なのよ。世の中の女子高生を娘に持つ父親を見て見なさいよ、あなたの部下にもいるでしょう?」
「そんな話、会社じゃできないよ」
「友達とかいないの…?」
「う…そういうわけじゃ…」
「変態仲間もいいけど、少しは世間的な知識も必要よ」
「そ…そうだね」
そればかりではないけど…そう言おうとして疲弊する。
「あなた、たまには家に帰ってらっしゃいな」
「…そ、そうだね」
「もういい加減、仕事も適当にしておかないと、過労死するわよ」
 そう真顔で視線を向ける玲に、
「怖いな…」
 きっと自分は「妻で死ぬ」と改めて下僕心が疼く泰英。
「まだまだ死んでもらっては困るわ」
「はい…」
なにはともあれ、そんな玲の言葉が嬉しいМで紳士な泰英であった。





まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します