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『仮面』(短編小説)

   上手に嘘がつけないから、きっと女優にはむいていないんだろうな。女優になりたいなんて思ったことはないけれど、そんなふうに自分で自分のことを理解している。

   私は飲み会というイベントが心底嫌いである。その理由は山ほどあって。騒がしいのが得意ではないし、飲み会のテンションにそぐわない真面目な話が好きだし、声の大きな人が一人でしゃべっているのを聞くその他大勢の一人としてでしか私は存在できないし、同調圧力を迫られる空気が嫌だし、ちょっとでも油断して暗い顔をしたら浮いて見えるし、酔っ払いの絡みは疲れるだけだし、席位置次第で全く興味のない人と話さないといけないのもきつい。

   みんな本当に楽しいのかな、なんていう疑問もある。一部の人をのぞいて、ほとんどの人が「飲み会用の仮面」を準備していて、乾杯した後にみんな一斉に顔にはめているんだと思う。宴会という場を楽しめるノリのいい自分を演じるために。じゃなきゃ、浜谷君はあんな穏やかな顔をしないはずだ。

   浜谷君とは昨年末の会社の忘年会の帰り道がたまたま一緒だった。忘年会では大声を張り上げてみんなを笑わせていたのだけど、二人っきりの帰り道の浜谷君は寡黙でやさしい口調だった。本当に別人だった。たまに会話が途切れることもあったけれど、お互いの好きな小説の話をしながら帰ったのを覚えている。

「浜谷君ってパワフルだよね」
「そう?」
「だって忘年会でずっと元気だったじゃん」
「いやいやそんなことないよ」
「そうは見えないけど?」
「ところでさ、石川さんって小説好きでしょ」
「え?」
「いつだったかな。会社近くの書店にいたのを見かけたよ」
「声かけてくれたらよかったのに」
「結構真剣な顔で文庫本を探してたからジャマしちゃ悪いかなって」
「うん。好きだよ」
「やっぱりそうか。俺も好きだからさ」
「どんなの読むの?」
「最近は村上龍にはまってて」
「ああ!私もはまってた時期ある」
「そうなんだね」
「コインロッカーベイビーズとか良かったなあ」
「あ、それ今読んでるやつだ」

   ああそうか、無理してたんだな、素の浜谷君はこっちなんだなって思った。飲みの席の浜谷君のことは「この人絶対無理」と思って見ていたのに、電車の座席の隣にいる浜谷君は波長が合って心地よかった。でもそれは私の願望かもしれなくて、仮面を被った浜谷君も、本物の浜谷君なのかもしれない。正直ずるいと思った。たいていの女子はこういうギャップに弱い。

   この国では「仲良くなりましょう」を「飲みにいきましょう」に変換することが社会人のたしなみだ。社会人同士が仲良くなるためのアイデアがお酒ばかりなのはどうかと思う。一緒にカフェでコーヒーを飲んでも仲良くなれるし、一緒に皇居ランとかしても良い関係を築けるはずだ。なんなら一緒に読書会とかでも。それは私の趣味だけど。

   そういえば浜谷君は営業職だった。日々の業務でクライアントの接待などもしているはずだ。間違いなく営業用の仮面を持っているのだ。つまり、忘年会の時もその仮面を付けていたということになる。そもそも、浜谷君は無理をしているわけではないのかもしれない。さまざまなシーンや立場で多彩な自分らしさを表現できる柔軟性を持っているのかもしれない。

   仮面を付けることが別の自分を演じることなのだとすれば、仮面のない私はいつも私でしかない。私以外の私になるなんて考えたこともない。そんなに器用ではないのだ。


*


   数ヶ月後、再び浜谷君と帰りが一緒になった日があった。

「そういえば、コインロッカーベイビーズ読み終わったの?」
「うん、あれは衝撃的な物語だった」
「ねっ!読み終わった後はダチュラっていう言葉が頭が離れないんだよね」
「そうそう!」

   やっぱり浜谷君と小説の話をするのは心地いい。こんなに言葉を弾ませて話している自分に驚いていた。

「小説ってさあ、誰かの人生を疑似体験することじゃん」
「疑似体験?」
「そう。読んでいる瞬間、物語の主人公になりきっている部分もあると思うんだよね」
「ああ、なるほどね」
「小説好きな人は変身願望があるのかもね」
「・・・そっか、そうだよね」

   私はドキッとして、次の言葉が全く出てこず、黙ってしまった。心の弱い部分をギュッと鷲づかみにされたような気がした。そのひとことで、私の心の牙城はいとも簡単に崩れてしまった。

   そうだ。本当の私は、私以外の私になりたいのだ。別人になれる仮面がほしいのだ。私がこれだけ小説好きなのも誰かの人生を疑似体験したいからであり、私にとって小説とは仮面そのものなのだ。自分の心でどういうふうに思っていようが、行動そのものは嘘をつけないのである。

「石川どうしたの?急に静かになったよね」
「・・そう?たまたまだよ」
「なんか俺変なこと言った?」
「言ってない言ってない」

   ちょっと強がっている自分に、ますます恥ずかしくなった。そして、心がかなり軽くなった気がした。私は特別な人間などではなく、みんなと同じように仮面を持ったありきたりの人間だったのである。

「ねえ、浜谷君。今度小説貸してあげよっか?」
「えっ、ほんとに?貸して貸して」

   心のたがが外れたせいなのかもしれない。今までの自分では到底言わないような台詞を浜谷君に向かって喋っていた。そこには素直でかわいげのある私がいた。その瞬間、恋をした中学生のような真っ赤な顔だったかもしれない。

(了)

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