『天井』(掌編小説/ホラー)


   金曜日は1週間の中で一番気分も機嫌もいい。

 今日を頑張れば義務や責任に縛られた世界から2日間解放されると思うと心が踊る。もしかしたら土曜日や日曜日より金曜日の方が好きかもしれない。ついでに言うと、日曜日の午後は月曜日と同じくらい嫌いである。

 詠子はベッドの上でそんなことを考えながら、スマホのアラームを合わせていた。明日は早いから寝ようと思って部屋の照明をOFFにした。アパートの八畳の部屋には窓が一つしかないため、カーテンを閉めて照明を落とすとほぼ真っ暗になる。

 目が機能しない空間では、耳が敏感になる。人間はそういうふうにできている。シーンに応じて器官の働きを最適化しているのだろうけれど、全く迷惑な話だ。時計の秒針の音、壁のきしむ音、冷蔵庫の作動音、風の音などいろいろな音がぶつかり合って混ざり合い、部屋の真ん中に“音だまり”ができている気がする。

 次第に闇に目が慣れてきて室内の輪郭が見えるくらいになった。目が機能し始めると耳に集中していた意識が多少分散される。音の地獄から抜け出したかった詠子は、目を開いたままでいた。仰向けに寝ているため天井しか見えない。

 どこにでもある洋室の白い天井だ。再び目を閉じようとしたら、視界の隅の方に黒い影が動いた気がした。

「ん?」

 おそるおそる視線を天井の隅にやる。猫くらいのサイズの黒い生き物が天井を逆さで歩いていた。詠子は慄然とした。多少の冷静さはあったので、両手両足の指を動かしてみるとちゃんと動いた。金縛りではない。

 黒い生き物は足音を立てずにゆっくりゆっくり動き、壁にぶち当たると今度は壁を歩き出した。徐々にベッドに近づいてきているように見えた。

 何が起こっているのかわからない詠子は呼吸の音すら立てられなかった。目が合うのが恐ろしくて力強く目をつむった。

 それから数分。不思議なほどに室内は静寂に包まれている。さっきまで気になって仕方なかった時計の秒針の音も意識しないと聞こえない。

 目をつむっている間、特に何も起こっていないが、今あの生き物は私の枕元に立っているかもしれない。そう思うと目が開けられないが、今部屋がどうなっているのか気になる。詠子は葛藤しながら薄く薄く瞼を開いて覗いてみた。

 猫の体に人間の顔をした生き物が真上からこちらを見ていた。その顔は能面のような真っ白な肌をした女性のようで、無表情だった。

 全身に戦慄が走る。

 詠子は再び目を閉じて、何に謝っているのかもわからないまま咄嗟に「ごめんなさいごめんなさい」と呟き続けた。30分ほど経った頃だろうか。再び目を開けるとそこに生き物の姿はなかった。


   ——— 翌日。

 詠子は昨晩の恐怖体験を同僚の彩子に話した。

「マジ? 」
「うん。ぜんぜん眠れなかった」
「・・・なんだろ、今、詠子が言った生き物、本かネットかなんかで見たことがあるかも」
「ほんと? 」
「あっ、思い出した。件(くだん)っていう妖怪じゃなかったかな」
「くだん?」
「体が牛で顔が人間の妖怪だよ」

 そう言って、彩子はスマホで検索したその妖怪の画像を見せてくれた。昔に描かれた絵の画像だったが、詠子が見た生き物にそっくりだった。一瞬で昨晩のことが蘇って寒気がした。

「似てる。でもね、体は猫っぽかったんだよね」
「猫? 顔が人間なら化け猫でもなさそうだし・・・っていうか、夢に出てきただけじゃないの?」
「いやいや、マジで見たんだって! 」
「ふふっ。くだんは、大きな天災の前に現れるって書いてあるよ」
「えー! もう彩子っ! 嫌なこと言わないでよー」
「でも、牛じゃなくて猫だったんでしょ」
「うん」
「サイズの小さな猫ってことは、その場所に小さな天災が起こる前触れなのかもね」
「やめてー」

 詠子の住んでいるアパートは築50年くらいの古い建物で家賃は格安だった。近々このアパートでよくないことが起こるかもしれないと思い始めると、本当にそうなりそうで怖くなった。

 詠子が今よりもっと都心よりの駅の築浅のワンルームマンションに引っ越すことを決めるまでに時間はかからなかった。


   ———1年後。

   詠子は相変わらず金曜日が待ち遠しい日々を送っていた。新しいマンションは前よりも家賃が少し上がったけれど、ベッドで仰向けに寝ていても、特に何も起こらなかったし、快適そのものだった。

 ある日、思い出したかのように、前に住んでいたアパートを見たくなった。インターネットの3Dマップで見てみると、アパートのあった土地は更地になっていた。

 この1年でそのアパートに何があったのかはわからないが、何かがあったのだろう。引っ越した私にはもはや関係ないが、結果的には自分の決断は間違ってなかったと思った。

   ただ、一つ気になっていることがある。

   それは、新しいマンションの管理人がすごく無表情で、あの生き物の顔に瓜二つなのだ。

(了)


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