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『ロンドンの犬小屋』(短編小説)


   ロンドンまではまだ10時間もある。私のような大男にはエコノミークラスの座席はあまりにも窮屈で、到着まで果たして耐えられるだろうかと不安でいっぱいだった。右隣りの席には私より大きなヘビー級のサラリーマンが座っていて私をいっそう憂鬱にさせた。唯一の救いは左隣りに座っているのが10歳くらいの小さな女の子だったことだ。急きょ頼まれた仕事の出張なので、通路側の席をとれなかったのはまあ仕方ない。

   前回ロンドンを訪れた時は新婚旅行だった。郊外にあるコッツウォルズの絵本のような風景を自分の目で確かめてみたいという妻のたっての希望が実現した旅行でもあった。私にとって初の海外旅行だったあの日、ロンドン上空から見える異国の景色をみて小学生のように胸が踊ったことを覚えている。

   眠気など一切無く手持ち無沙汰だった私は、読みたくもない機内誌をパラパラとめくる。イギリスで活躍する日本人料理人の記事が載っていたが、一切読まずにシートポケットに戻した。気分はのらなかったが、今回訪れるロンドン市内のロケ場所を再度確認することにした。

   そうこうするうちに、右隣りの大男がいびきをかいて寝始めた。私の右肩には大男の生温かい左肩がぴったり密着してもたれかかっている。いびきと体重とおっさんの温もりの三重苦である。それに比べ、左隣りの女の子は知的な眼差しで静かに本を読んでいる。横目で本のタイトルを確認すると星新一とあった。

   女の子の一つ先の座席には、男の子が座っていた。男の子は携帯ゲーム機に夢中になっている。顔の造詣が近いので、おそらく二人は兄弟なのだろう。

   しばらくすると、女の子は読み終えた本を膝の上に置いてあくびをした。やることがなくなってキョロキョロしている。私の方を一瞬見て目が合ったかと思うとすぐにプイッとして、男の子に向かって言った。

「カズ、それ私にもやらせて」
「だめ!今いいところだから」
「飛行機乗ってからずっとやってるでしょ。交替よ、交替」
「姉ちゃん、本読んでたじゃん」
「読み終わったし」
「これ俺のやつだし」
「パパがお姉ちゃんにもやらせてあげなさいって言ってたでしょ!」
「やだよ、べーだ」
「かしなさいよっ」
「絶対やだ!」

   たちまち兄弟げんかが始まってしまった。一気に騒がしくなったが誰も注意しない。その声の大きさに、右隣りの大男が目を覚ました。おもむろに膝の上にある革の鞄を開けてごそごそと何かを取りだそうとする。鞄の中から出てきた手は耳栓らしきものを掴んでいて、すぐに装着してからふたたび眠りについた。一瞬のできごとであった。そしてまた、あの獣の鳴き声のようないびきが始まった。

   女の子の前の座席には、母親が座っている。その隣りに座っているもう一人の女とおしゃべりに花を咲かせているようだ。子供が喧嘩していることなど気づく様子もない。

「痛っ!ちょっとカズ!いま叩いたでしょ」
「お姉ちゃんが俺の指をギュッと痛くしたから!」
「カズがゲームを交替しないからでしょ」

   ますます兄弟の声は大きくなっていく。前の座席にいる母親もさすがに気づいたようで、座席と座席の間のスペースから、にゅうっと顔を出して大声で注意した。

「うるさいから静かにしなさい!迷惑でしょ」

   低くて重いその声には迫力があって、私までドキッとしてしまった。その後、母親は何もなかったように隣りの女とのおしゃべりを再開した。怒られた兄弟は、お互いの顔を合わさないように二人の間のスペースを空けて別々の方に顔を向けていた。つまり、女の子は、私の座席の方にぴったり張り付いて座っているのだった。私のスペースはますます狭くなった。女の子はこわばった顔で私の横顔をじっと見つめている。絶対に目を合わせてはいけない。私に何もやましいことはないが、私の防衛本能が確かにそう言った。

   子供たちが静かになると、今度は、さきほどの母親の独特な笑い声が気になって仕方ない。泣き声のような笑い声といえばいいだろうか。こういう身動きが自由にとれない空間にいる場合、一度気になってしまうとそこに意識が集中してしまう。その笑い声を聞くたびに、全身の皮膚がこそばゆい感じになって異常なほどに居心地が悪いのであった。

   獣のいびきと、密着する二の腕の体温、泣き声のような笑い声、女の子の鋭い視線などに包まれて、私は限界に近づいていた。あと一つ何かが加われば、私は暴発するであろう。この時ほど、ビジネスクラスやファーストクラスが羨ましいと思ったことはあっただろうか。

   私は修行僧になっていた。ただひたすら耐えて耐えて耐え忍ぶのだ。この試練を乗り越えた先にきっといいことが起こるのだと思いながら、機内中央のモニターに表示された「ロンドンまであと9時間」という文字を見た時、一瞬頭がクラッとした。

   モニターを見た時に気づいた。前の方の座席で客室乗務員のお姉さんが機内食を配り始めていることに。ちょうどお腹もすいていたし、いい気分転換になりそうだ。私を取り囲む環境にも少なからず良い変化を与えてくれそうだ。まさに、一筋の希望の光が射し込んだ瞬間だった。

   外国人の客室乗務員は「ビーフ オア フィッシュ?」と一人ひとりの乗客に丁寧に確認しながら機内食を渡していく。次第に自分の座席にも近づいてきた。食欲をそそるビーフの匂いが漂ってくる。私は断然ビーフ派である。

   ついに私の列にやってきた。男の子、女の子、私、ヘビー級サラリーマンの順番だ。男の子は「ビーフ」と言った。女の子はちょっと悩んで「ビーフ」と言った。やっぱりビーフがいいよね!なんて勝手なシンパシーを感じつつ、私は元気よく言った。

「ビーフ!」
「ソーリー。フィニッシュドゥ。フィッシュオゥンリー・・・」
「ええっ!」

   呆気にとられた私は、下手な英語で返した。

「ノーデリシャスビーフ?」
「イエス、ノービーフ。ソーリー」

   動揺した私の口から飛び出したヘンテコな英語を聞いて、隣りの女の子は「ぷぷっ」と吹き出しそうになって自分の口を手で覆った。落胆の色を隠しきれない私を見て、客室乗務員は苦笑いした。

「・・・・オッケー。フィッシュ、オッケー」

   頭が真っ白になっていた。そう、女の子のビーフがタイミングよくラストだったのだ。このやるせない怒りをどうやって消化すればいいだろう。心も体もカチカチになっている私の右隣りでは、ヘビー級サラリーマンが幸せそうに機内食の焼き魚をほおばっていた。

・・・・もういい。何もかもどうでもいい。無になろう。私は、しばらくの間、口を半開きにして自分の世界に入り込んでいた。

   突然だった。私の機内食の上にぽんともう一つの機内食がのった。その機内食は間違いなくビーフで、置いてくれたのは女の子だった。

「おじさん、どうぞ。私、フィッシュでいいよ」

   さっきまでの鋭い顔つきをしていた女の子とは別人のような、やさしい笑顔で私にそう言った。まだ10歳くらいなのに、大人の女性のような余裕と包容力を感じずにはいられなかった。

「えっいいの?」
「うん。おじさん、さっき面白かったから」
「本当に?」
「うん」
「やさしいね!ありがとう。でもおじさんはフィッシュでいいよ。ほら、隣りのおじさんが食べているお魚、おいしそうだろう?」

   それを聞いていたヘビー級サラリーマンは、私と女の子の方を向いて、「おいしいよ。ほんとうに!」と言ってニコッと笑った。

   結局、私はフィッシュを食べた。思っていたより焼き魚の脂がのっていて美味であった。気がつくと、さきほどまでの怒りやイライラとした感情は姿を消していた。それと同時に「犬の姿をした自分」が姿を現した。

   機内食を与えられた瞬間に心が鎮まった私の姿は、まさに、エサを与えられた瞬間に従順になる犬と同じであった。10歳前後の子供から哀れまれる、そんな自分がとてつもなく情けなかった。

   食事の後、お腹が満たされたせいか、私はなんだかホッとして、熟睡してしまった。



「間もなくロンドン・ヒースロー空港に到着します」

   私は機内アナウンスで目が覚めた。着陸に向けて飛行機が旋回し始める。飛行機の窓からはロンドンの街並みが見えるが、新婚旅行のあの時のように心は躍らなかった。

   ロンドン市内に規則正しく並ぶ赤い屋根の家々が、犬小屋に見えて仕方なかった。

(了)

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