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『声』(短編小説)

   23時40分。

   僕は、うつろな表情で、車両連結部のドアにもたれかかっていた。こんな時間であっても山手線は混雑している。

   流れていくビジネス街の夜景を眺めていた。車窓ごしに輝いて見える無数の明かり。その内側には働いている人間がいるのだ。そう、ついさきほどまで私もその一人であった。日本人は休むのが世界一下手だと疲れた顔をした学者が言っていたのを思い出した。

「おい、そこのお前」

   不意に誰かの声が聞こえた。周囲を見渡してみたが、その空間にいるのは、寝ている人間か、うつむいてスマートフォンを触っている人間かのどちらかだった。座席で寝てる誰かの寝言かと思い、再び車窓の外に目をやる。

「お前だよ、そこにいるお前」
「えっ」

   ついに幻聴が聞こえはじめたのかと思い、これは本格的にやばいやつだと塞ぎ込んだ。しばらくするとまた声がした。

「こっちだよ、こっち」

   ほぼ確実に、僕に対して話しかけている。耳をすますと、その声は向こう側の車両から響いてくるようだった。連結部のドアを開けて車両を移動してみたが、僕に話しかけているような人物はやっぱり見当たらない。

「だから、こっちだって」

   今度は元々いた車両の方から、その声は聞こえてくる。また元いた車両に戻ろうと、連結部を通った瞬間、その声が耳のすぐ近くでささやいた。

「お前、疲れてるな」

   どうやら、この車両の連結部から声がしている。もちろんその狭い隙間には誰もいない。

「お前、やばい顔をしてるぞ」

   僕は間髪入れずに「誰だ?どこだ?」と言葉を返した。

「そんなことはどうでもいい。それより、お前このままだとやばいよ」

「お前は誰だ!?」と、思わず僕は怒鳴った。

   振り返ると、電車内のサラリーマンたちが不審者を見るような目でこちらを見ていた。そんなことはお構いなしにその声はさらに話し出した。

「お前みたいなやばい顔をしたやつ、今まで何人か見た」
「だから何だ?」
「そいつらはそれ以来見かけなくなった」
「・・・くだらない」
「俺の声が聞こえるってことはそういうことだ」

   今自分が話している相手は、連結部にある蛇腹のような姿をした貫通幌である。その声が話す内容を本気にはしていなかったが、少し怖くなってきたことは否定できなかった。

「正体もわからないお前の言うことなんか誰が信じる?」
「信じるかどうかはお前が決めればいい」
「・・・」
「お前の明日は見えるけど明後日が見えないんだよ」
「どういうことだ」
「だから、お前の明後日が真っ黒に染まっているんだよ」
「・・・」
「そんなの信じるわけないだろ!」
「まあ、お前の好きにしたらいい」
「だいたい真っ黒って何なんだ?」
「存在していないってことだ」

   ふと我に返る。気がつけば俺は幻聴と会話していたのだ。家に帰って早く寝ようと思った。

「ああ、俺やっぱり疲れすぎだな。どうかしてるわ」
「・・・」
「おいっ!何かしゃべれよ」
「・・・」

    もう返事はなかった。それっきり声は途絶えてしまった。電車のブレーキ音が響く。もうすぐ新宿に到着する。帰り道はずっと、スマートフォンで「幻聴」と検索していた。

げんちょう【幻聴】
外界から何の刺激もないのに、何かが聞こえるように感じること。

    あの声が妙にリアルだったのが気になっていた。「明後日は真っ黒」という言葉が頭から離れなかった。とはいえ気にしすぎると症状はさらにひどくなりそうだ。なるべく気にしないでいよう。そう思うことにした。

   もはや寝るだけの空間と化したワンルームに着くと、着替えもせずに吸い込まれるように寝てしまった。

*

「あ、やばい!今日は朝からミーティングだった。早くいかないと」

   起床後、僕は昨日の服のまま、歯だけ磨いて家を飛び出した。

「よしっ、間に合った!」

   殺伐とした駅のホームに電車がやってくる。ドアが開く。勤め人たちは当たり前のように電車内に流れ込んでいく。発車のベルが鳴る。

   脚が動かなかった。

   駅のホームに呆然と立ち尽くす自分がいた。ドアが閉まり電車が動き出す。少しずつスピードを上げていく。それらをただ見ていた。もう僕はこのまま会社には行くことはないんだろうな、と思った。午前の陽射しはいつもより眩しかった。

   気がつけば、目的もなく逆向きの電車に乗っていた。くだりの電車は、人々の表情がどこか違うように見えた。スマートフォンが鞄の中で何度も鳴っていた。昨晩の幻聴の何倍も嫌な音に聞こえた。変えよう、明日の色を黒から白に。

   何かが終わり、何かが始まる気がした。

(了)

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