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誰かのために生きるな、自分のために生きろ。(映画『トイ・ストーリー4』レビュー)


(途中からネタバレあります)

言葉で直接言われたわけではないのに
自分が実は必要とされていないという
事実を悟ったことはないだろうか。

自分はそこにいてもいなくても
同じだと気づいて、
落ち込んだことはないだろうか。

必要とされたいと思って、
自分がほんの少しでも
役に立てる狭い足場を必死に
探そうとしたことはないだろうか。

自分がそこにいる価値のある
人間だと思いたくて、変に力みすぎて
失敗したことはないだろうか。

多くの人たちが、これまでに、帰りの電車や深夜の布団の中で、「自分の居場所」について思いを巡らせたことがあると思う。相手が人であれ、組織であれ、誰かから必要とされたいと思うのは自然なことだ。

「必要とされなくて苦しい」という状況を分析してみると、その人の軸足が他者にあるケースが多い。他者を軸にする生き方は、ある意味でラクだ。(もちろん思い通りにいかない部分もある)

それは、いろいろなシチュエーションで当てはまる。例えば、会社と従業員の関係であれば、会社の大事なことは基本的に経営者が考えて経営者が決めるので、それに従っていれば給与がもらえる。責任やリスクの少ない場所にいられる。

ただし、ラクなのは、寄りかかっている相手に必要とされている間だけだ。寄りかかっている相手が重くなってその場所から動くと、途端に自分はバランスを崩してしまう。

他者と関わらずに生きていくことはできないけれど、軸足をどこに置いているかは結構重要だ。これは私も過去に心当たりがある。

人間は基本的に一人だ。

産まれる時も死ぬ時も誰かと手をつなぐことはできない。この文章だって一人で書いている。noteでたまに心にズシンとくる名文に出会うことがあるが、それだって、深夜の薄暗い部屋や知り合いのいないカフェなどでパソコンに向かって孤独に綴られたものだろう。

「自分の中に軸を持つ」って結構しんどいし、「自由」ってある意味で不自由だし、「自分のため」ってあんまり格好よくない。でも、つい先日、あるアニメーション映画の登場キャラクターに、「自分の中に軸を持つ勇気」を見せつけられた。

その映画とは「トイ・ストーリー4」だ。

この映画には人の生き方の根本に関わるメッセージが込められていて、個人的には、この「4」がシリーズの中で一番好きかもしれない。


(以後、ネタバレを含みますので、まだ観ていない方はご注意を)

物語の細かな流れは省略するが、話の鍵になるのは、“ウッディの孤独”だ。

主人公のウッディ(保安官の人形)は、持ち主の女の子ボニーに遊んでもらえなくなっていた。他の仲間(おもちゃ)たちがボニーに連れ出されて遊んでもらえている中、ウッディ一人だけクローゼットの中に取り残される。

「忘れられた」というより「飽きられた」に近いかもしれない。コミカルに描かれているが、残酷なシーンだ。

前の持ち主(アンディ)の家にいた時は、おもちゃの中では特別な存在だったのに。アンディが成長してボニーの家にもらわれた当初も、ウッディは「私のカウボーイ」だったのに。

受け入れたくない現実を受け入れざるを得ないウッディ。そんな状況であってもウッディは自分にできることを探そうとする。その日はボニーが初めて幼稚園に行く日だった。行きたくないとグズるボニーを心配したウッディはリュックにこっそり入り込んで一緒に幼稚園に行く。

幼稚園でなかなか友達ができず図工の時間も一人っきりのボニー。見かねたウッディは、ゴミ箱からフォークやアイスのへらなどの工作の材料を取り出して机の上にさりげなく置く。ボニーはその材料を使ってシンプルな人形をつくる。人形の名前は「フォーキー」。ボニーは自分で作ったフォーキーのことをすごく気に入った様子で、曇っていた表情がどんどん晴れやかになっていった。

ボニーが幼稚園でうまくやっていくためにフォーキーの存在は不可欠だと悟ったウッディは、ゴミ箱に帰ろうとするフォーキーをあの手この手で「ボニーのそばにいてあげてくれ」と説得しようとする。

・・・泣ける。

自分はもう必要とされていない。にも関わらず、自分の姿を隠しながらボニーの役に立とうとするウッディの姿。この時のウッディは、ただ純粋に自分の存在理由がほしいのだ。自分の成果にならないのに会社のことを思って徹夜して仕事するようなものだ。

物語には予想もできなかった結末が用意されていた。

ウッディは、数年前に離ればなれになった恋人ボー・ピープと遊園地(厳密にはアンティークショップ)で偶然再会する。“持ち主のいないおもちゃ”として自由奔放に生きる彼女の生き方に少しずつ惹かれていく。

象徴的だったのは、見晴らしのいい場所で遊園地を眺めながらボーが語った「世界は広い」という言葉だ。この時点で、ウッディはボーの生き方に自分を重ね合わせようとしている(と思う)。

最終的に、ウッディは、持ち主のいないおもちゃになって、恋人のボーと共に生きていくことを選ぶ。ウッディは誰かのためではなく自分のために生きることを決意したということだ。

思えば、物語の終盤あたりで、背中の中に組み込まれた音声装置(俺のブーツにゃガラガラヘビ〜♪)を、他のおもちゃのために手放した時に、ウッディはすでに覚悟していたのだと思う。

それまでずっと持ち主への忠誠心に従って生きてきたウッディが、初めて自分の足で立った瞬間だった。狭い子供部屋から広い世界へ。まさにそれは、会社のために長年尽くしてきた人間の脱サラであり、誰かに依存して生きてきた人間の独り立ちそのものではないか。そんなふうに自分なりに勝手な解釈をした。

映画の結末には賛否両論あるようだ。

今までどおり、子供部屋の仲間たちと一緒にいてほしいと思う気持ちはわかる。自分も当初はそう思った。でも、鑑賞後、しばらくしてから、自分の軸を持って生きることを選んだウッディの勇気を讃えたいと思うようになった。他人(観客)から見てぴったりはまっている場所が、必ずしも自分(ウッディ)にとって一番幸せな場所とは限らないから。

逆境にいる時、人はどんなふうに動けばいいのか。どんなふうに心を持っていけばいいのか。このフィクション映画の中で、ウッディが格好悪くもその一例を体現してくれている気がした。



※写真は、わが家の子供部屋で暮らしているウッディ。息子はあまり遊ばなくなってしまった。明日、急にいなくなるかもしれない(笑)。


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