あいさつの社会的機能

よく年配の人が「最近の若い人はろくに挨拶できないものが多い」と愚痴るのを聞くことがある。だがぼくの経験では、年配の人でもろくに挨拶しない人というのはけっこういる。そういう人は、決まって胃病でもわずらっているかのような、不機嫌そうな顔つきをしている。だが、若者だろうが年配者であろうが、人に挨拶しないというのは「危険なこと」なのだ。

どこの国であっても社会的な礼儀の習慣のひとつとして「あいさつする」という行動が行われている。あいさつの仕方は国や民族や集団によってさまざまだ。日本では[おじぎする」だが、欧米は握手だし、中東だと抱擁する。アメリカの若者なら「ぐータッチやハイタッチ」だし、集団や民族によって様々な挨拶が行われている。だが、地球上にあいさつの習慣がない国や民族というものは存在しない。それどころか、動物の世界にもすでに挨拶があるといわれる。チンパンジーはあいさつのために手を差し出したり、抱擁したりするそうである。まぜならあいさつというものは、集団生活において、社会的に重要な機能を果たしているからだ。

たとえば、初対面の人に相対するときには、自然に緊張して警戒心を抱くものだ。相手の正体が分からないまま対面することは不安なことである。だから「知らない人間は敵である」という判断は生得的な反応だといわれている。そして、人間にとってのあいさつというのは、じつは文化的に形成された「和平の儀式」だとされているのである。

「世界中どこでも、あいさつの役割は(集団の)結合を確立したり維持したり、あるいは攻撃的行動をなだめたりすることにある」(アイブル=アイベスフェルト)のである。

人間には遺伝的な攻撃衝動の機構が組み込まれていることを以前紹介したが、あいさつ行動は、対面した相手の攻撃性を抑止し、友好性を確立する働きをしているのである。だからあいさつしないということは、それだけで危険なことである。あいさつしないことが、ひとつの攻撃的な行動として相手に作用し、相手の攻撃性を刺激してしまうからだ。それは知らない相手だけではなく、知っている相手に対してもそうなのである。

たとえば、知り合いが集まった何かの会合の場などに入ってゆくとき、あいさつしないで入ってゆくと、集団のメンバーから不機嫌な顔で迎えられたりするのである。反対にごく軽いあいさつ、たとえば片手を挙げて見せたり、軽くうなづいたり、「こんちは、どうも」などと、簡単な声掛けをするだけでも、まったく反応が違ってくるものなのだ。

あいさつ行動することは、個人の間に結びつきを作りあるいはその結びつきを強め、あらかじめ集団メンバー間の攻撃衝動を和らげ、メンバー間でコミュニケーションを交わす、という三つの働きをしていると考えられている。そして人間のあいさつは、古い霊長類の時代から引き継がれてきた遺伝的な遺産が、文化的な社会規範の領域に置き換えられたものなのだ。しかもわれわれは日々の習慣として自動的にあいさつのようなマナーに従っているのであり、それがどのような機能を果たしているかには気づいていないのである。

なかには「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」と言われるような失礼な挨拶もないではないが、ぜんぜんあいさつなしより、よほどましなのである。

(参考文献)
・アイブル=アイベスフェルト 「愛と憎しみ2:人間の基本的行動様式とその自然誌」 日高
敏隆・久保和彦訳、 みすず書房
・ R ・ I ・エバンズ 「ローレンツの思想」 日高敏隆訳、 思索社

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