笑顔のあいさつ

たとえば、もし店員がむっつりした顔つきで近づいてきたら、客はひるんで身構えたりするだろう。だが笑顔を浮かべて近づいてくるのなら、相手が緊張することはないし、身構えることもない。なぜなら、笑顔には対人関係におよぼす効果があり、その効果には目立たないが決定的なものがあるからだ。

じつは笑顔には相手をなだめるはたらきがあり、相手の緊張を解く効果があるのである。だから接客業や営業職の人たちは、職業研修の一環として笑顔の作り方を指導されたりするのである。それがたとえ作り笑いではあっても、笑顔がお客に与える印象は、確実に好ましいものなのだ。

笑顔の生物学的な起源はよくわかっていないようだが、それは歯を見せる表情であり、威嚇の表情にも似ている。しかし威嚇の場合の歯の出し方とは違って、笑顔は友好的に歯を見せる表情なのである。生まれて間もない赤ん坊は、乳児の段階ですでに笑顔を見せるそうだが、それは周囲の大人や兄弟姉妹に向けた「あいさつ行動」なのだといわれている。

笑顔で有名なタイ王国は「微笑みの国」とも呼ばれている。この表現はタイ人の国民性をあらわす常套句として、あらゆるガイドブックや旅行会社のパンフレットに、必ずといってよいほど使われている。じっさい、タイの人々にはじつに明るく柔和なな笑顔を浮かべて人に接する国民性がある。このタイ人の微笑は、社会生活の技術を考えるうえでなかなか参考になるものだ。

いわゆる「タイ・スマイル」といわれるものだが、そうした彼らの微笑(イム)は社会生活の潤滑剤や緩衝材として機能しているのだろう。イムが対人接触の際の衝撃を緩和し、人間の交際を緩やかで摩擦の少ないものにすることに役立っているであろうことは、容易に想像がつく。タイの人々の、イムを浮かべて胸の前で合掌するいわゆる「ワイ」というあいさつの仕方は、じつに穏やかでもの柔らかな印象をあたえる。相手が見知らぬ他人であっても、微笑を浮かべた顔に対しては安心して接することができるのだ。

ヘンリー・ホームズとスチャダー・タントンタウィー共著の「タイ人と働く」という本によると、タイ人の微笑は「社会的化粧」なのだという。なるほど、人前に出るときには身だしなみを整えるように、人と接するときには表情の身だしなみも整える必要がある、というわけであろう。

「アジアに長く住んでいると、タイ人のほほ笑みが何であり、外国人がよくやるような“額にしわを寄せるやり方”よりは、ときに事態の解決にずっと役立つことを、おのずと理解するようになる」と著者らはいう。この微笑によってタイの人々は「緊張を解きほぐし、人間関係を保ち、社会的調和に頼ることで、物事をうまくまとめていこうとする」(同書)というわけである。

だから笑顔は平和のしるしである。それは人々の攻撃性をなだめ、人々の武装を解除する。人々をつなぎ、絆をつくるのである。

(参考文献)
・アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ1:人間の基本的行動様式とその自然誌」日高敏隆・久保和彦訳、みすず書房
・アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ2:人間の基本的行動様式とその自然誌」日高敏隆・久保和彦訳、みすず書房
・ヘンリー・ホームズ/スチャダー・タントンタウィー「タイ人と働く:ヒエラルキー的社会と気配りの世界」末廣昭訳、 めこん

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