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【最新と王道】映画の流儀に正解を探しているアーティストたちへ

映画の流儀から外れれば、歴史に反する。一方で、まったく新しい映画こそが求められている事実もある。このトピックでは、「迷わず進める映画作法」を、知ることができる。先輩からの教えとテクノロジーからの閃きに揺れるアーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 表現の自由、映画の不自由 』

映画にルールは無い。絶対に忘れてはいけない「マナー」があるだけだ。

多彩なジャンルに加えてフォーマットが増え続け、視聴環境が多様化した。「大画面と高音質でなきゃ映画じゃない!」という声もあるが、A.R.型4KヘッドマウントディスプレイにVRサウンドを装備すれば、IMAXよりも大画面で、THXよりも上質サウンドの体験を自室で実現できてしまう時代。

つまり、「映画とは」という問いを環境や条件から導くことは、不可能なのだ。我々アーティストは「マナー」という美意識を胸に、答えの無い“映画”を探し続けている。それが3時間の退屈な固定映像でも、たった3枚の連続写真でも、映画になり得るということだ。

アーティストが映画だと信じ、観客が映画だと感じたなら。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:「スーサイド スクワッド」の監督、マーティン スコセッシ監督に詰められて反撃

「スーサイド スクワッド」のジェームズ ガン監督は、質問に対して正直に、そして遠慮なく答えることで知られている。映画界の成功者には稀有な資質だ。

ベテランのエンターテインメント ジャーナリストであるジョシュ ホロウィッツ氏が問う。「マーティン スコセッシ監督のような人々を前に、スーパーヒーロー映画を守る側に回るのはどんな気分ですか?」などと。アカデミー賞受賞者で巨匠のスコセッシ監督は2019年10月に自身の映画「The Irishman」のプロモーション中に、スーパーヒーロー映画をテーマパークに例えて、「マーベル作品は映画ではない」と発言したことで悪名高い。

ガン監督は、他の映画関係者と同様に、スコセッシ監督の発言に理解を示した。一方で、「映画を見ずに語るのはいかがなものか」とツイートしたことを認めた。「彼が私の映画を、“その他”と同じように評価しているのは悲しい。わたしはマーティン スコセッシ監督を、現役の映画監督の中で好きな5人のうちの1人だと想っているんだから。」

反撃も忘れない。「彼は、自分の映画にプレスの関心を得るために、マーベルに反対し続けていたんですよ。新作映画The Irishmanに注目させるために、利用したんです」

スコセッシ監督の言葉を述懐する。「本来あるべき映画のていを成していない、心のこもっていない、魂のないスペクタクル作品ばかりだ」と。ガン監督はスコセッシ監督を「おそらく世界で最も偉大な現役のアメリカ人映画監督」と称賛しながらも、「ある一点においてのみ意見が異なる」と指摘した。

なお、論争に巻き込まれた形のザック スナイダー監督(※ガン監督の前任者)は、マーティン スコセッシ監督に同意しているように見えている。 - AUGUST 04, 2021 THE Hollywood REPORTER -

『 ニュースのよみかた: 』

王道エンタメ系ジェームズ ガン監督と、王道ドラマ系マーティン スコセッシ監督がそれぞれの主張を以てどちらも、大活躍中という記事。

映画が誕生した126年前、それは“技術披露用素材”であり、そこにはルールもマナーも存在しなかった。舞台興業全盛時代に映画は、芸術ではなかったわけだが。また、映画誕生から7年後に公開された「月世界旅行」というSF作品は、“ストーリーがある”最初の作品であった。

つまり、映画の歴史は「エンターテインメント」から始まっている、一方で「ドラマ」は演劇を経て戯曲として、古代から存在している。
成功者と巨匠二人の言い分は、どちらも弱いのだ。

『 無駄という価値 』

無駄をなくすことがプログラミングであり、問題を解消することがソリューションだ。常識的に立派な人々は加速社会に生きてあらゆる事柄を簡略化し、“便利”を追求している。映画業界も例外ではなく、撮影ユニットのダウンサイジングが流行だ。予算圧縮とスケジュールの圧縮も可能になり、母体が小さくなることでスピードが向上しつづけている。

そして、「無駄」に希少性が生まれ、価値になる。
無駄とは、人々が詳しくない領域であり、価値の塊である。
「便利」と「安心」の先に人々が求めるのは、無駄、である。

「便利」を手に入れると、「よかった」と想う。
「安心」を手に入れると、ひとは失うことへの「不安」を抱く。
不安を払拭するために人は“無駄”を手に入れて、「嬉しい」と感じる。

アーティストとは、無駄を再認識して厳選する者であり作品とは、「価値化された無駄」という成果だ。

『 必要とされていない、という自由 』

繊細で傲慢で社交性が低い夢想家のアーティストは極々一部の例外を除きもともと、社会に必要とされていない存在だ。尊大な自意識に反して社会には、無駄な存在だったとも言える。

アーティストという価値に、注目が集まっている。
経済混乱と社会インフラの不均衡が招いた全世界同時不安においてアーティストが、価値化されているのだ。社会に蔓延する“高級”だと信じられていたハイブランドの価値が瓦解した現在、アーティストが厳選する作品が高額で売買されはじめている。「アーティストと作品の両輪」が、ブランドになろうとしているのだ。

心配は要らない、そもそもに必要とされなかった我々は常に自由だ。先人に学び最先端に学び、すべてを忘れて自我を通すことが許されている時代なのだ。正解は、あなたのなかにある。

人類が信じてきた中央集権型金融の不均衡が生んだクリプト市場はいま、社会を越えて「芸術」を捉えた。人類の本能が生み出した古代演劇はテクノロジーを経て、近未来とのパートナーシップを実現したわけだ。

我々が、証明していこう。
続くといい。

『 編集後記:』

「・」が気になる。
マーティン・スコセッシ、ジェームズ・ガン、スーサイド・スクワッド。やはり“・”が気になる。これは誰がはじめたのだろうか、“中黒(ナカグロ)”と言うらしい。わたしはいつも意図的に、スペースを使う。ただ、一文字分の空白を挿入すると間が広すぎて姓と名の疎遠感が強い。親への罪悪感が出る。そのため毎回、“半角スペース”を手打ちしている。親密でありながら、適度な距離感を維持できる。正月にしか帰らないが、こまめに連絡するくらいの親子関係だ。

だが、プラットフォームやチャットツールによって勝手に、“半角スペース”を削除するサービスがある。他人の家庭環境に踏み入る、大きなお世話だ。仲が黒かったらどうする気だ。

闇と光の間に存在する物語をつむぐべく、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記