怠惰であることをアイデンティティにしている限りは自分のことを好きになれないのかもしれない

ちょうど今、秋の終わりを感じさせる肌寒い季節になると、私は小6のその時期を思い出さずにはいられない。その頃の自分は毎日髪をハーフアップに結って、全身ポンポネットかメゾピアノで固めて塾に通うような量産小学生だった。(勿論ボサボサの髪をヘアクリップで束ねてスウェットで予備校に通うようになるとは1ミリも想定していない)
授業が終わると日が暮れていて、塾を出ると頬を冷たい風が撫でていったあの日のことを、大半のことを一瞬で忘れてしまう私が何故か今でも覚えている。

いつも私の脳内の垂れ流しのようなツイートを見ているみんなは私をどんな人間だと思っているんだろう。
Twitterではメンヘラそうとか、モテなそうとか言われるけど、現実で1番言われがちなのは自己肯定感高そうとか、メンタル強そうとかかもしれない。
どうだろう、意外かな?自己肯定感高そうって言うの、なんか文面で見ると悪口っぽく見えるね(そうじゃないって信じてるけど🥺)

実際、自分の自己肯定感が上がったのは小5小6あたりの中受の時期に起因するのかもしれないなと最近思う。
え、こいつ、頭悪そうなのに中受してんの?と思ったそこのあなた。こんなクソ田舎には中高一貫の超進学校は存在してないので安心してほしい。私立には行かせられないと両親に宣言された私は唯一ある県立の中高一貫の対策コースに通って、勿論大分にしかない県内大手の塾が作る○○中模試でずっと2位を取り続けて無事入学することになる。(ここだけ切り取ると私が頭良いみたいになるけど、中受トップ層は県外の中高一貫の対策で英進館と日能研にいるので本当に大したことない)

井の中の蛙状態で自己肯定感がブチ上がった中1の私は狭い自分の世界から見える限りのキラキラした『何か』に囚われて思春期を過ごすことになる。

「ガリ勉ダサくね」と思って勉強をやめ(これがまず大きな間違い。勉強しろ。)、丈を短くしたところでダサいことに変わりないデザインの制服のスカートを折りまくり、放課後は化粧をして死ぬほどプリクラを撮った。

勉強が出来ることを褒められて得た自己肯定感で、年相応のキラキラした生活を手に入れて、勉学を放棄する。そんな生活だった。(でも受験もせず地元の中学に行ってたらこんな楽しい生活もしてなかったと思うから後悔はしていない。)

高校に入るともっとこれがエスカレートして、授業はほぼ寝て、課題も出さず、最寄りのマックに溜まってTikTokを撮ったり、他校の男の子と遊んだりする典型的なダメ人間だった。

毎日楽しかったし、刺激的だったけど、成績を褒められたり、チヤホヤされたりして得る自己肯定感は結局他者からの相対評価でしかない。それに気づいてからずっと『自分が他人からどう見られるか』ばかり考える癖がついてしまった気がする。自己肯定感が高そうな人間を演じて、自分のことも騙したかったのだ。

コロナ禍になってから、自己受容とか、自己肯定感に関わるメンタルヘルスに着目されることが多くなったような気がしていて、「どんな自分でも愛そう」みたいな風潮がトレンドになりつつあった気がする。
私はこの風潮が本当に合わない人間で、耳障りの良い言葉はポルノと一緒だろ、と思いつつ、こういうことを言われる度に反吐が出そうになっている。

私がこう思うのはきっと相対的評価で得た承認でどうにか自分を奮い立たせて、何か努力をして成功を得た経験に付随する自信が無いからだろうけど。

私が浪人したのは、何か頑張って努力した経験が欲しかったからで、自分で頑張れたと思えたとしたら志望校に受からなくても構わないと思っていたけれど、今のところ全く努力出来ずに去年と同じ戦績になりそうで絶望しています。

ここまで読んでくれたあなた、こんな駄文を読んでくれてありがとう。お風呂の中でダラダラ書いたから文章変かもしれない、ごめんね。自分でもこの文のオチが見つからないのでとりあえずここまでにしておきます。

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