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男女男男女男女



どうも。



木曜担当の、そーかいです。






「純愛」とは、何でしょうか。

「邪心のない、ひたむきの愛。」
「その人のためなら、自分の命を犠牲にしても
 かまわないというような愛」
「肉体関係を伴わない愛
 (プラトニック・ラブ)」
「見返りを求めない愛(無償の愛)」


25歳のぼくには、どれもピンと来ません。



ぼくは、中学時代から
好きな人がコロコロ変わる人間でした。

当然、周りからの評判は悪く、
仲の良い友達からも
「次は誰なん?」と呆れられることが多かった。

そんな、気移りしやすい自分を自覚しながらも、
ぼくが自分を嫌いにならなかった理由は
“その都度 好きになった人を、心から好いていた”
からだと思います。


高校生になり、
大学生になり、
上京し、
最長交際期間が3か月だったぼくは、
何も変わっていませんでした。



そして時は過ぎ、
時代は「変わったよ」と教えてくれることなく
「多様性」という単語の
出現頻度が増えた世の中になりました。




男・女の2つではなく、
人の数だけ存在する
7,875,000,000が「性」の数。



病気・罪として扱われてきた過去から比べると、
セクシュアルマイノリティの存在は
「変化している」ことは事実でしょう。




ただ「過去と比べたら良くなったね」は、

貧困層の人たちに対する
「ホームレスに比べたら裕福だよね」
の発言と同義であり、
貧困という課題の解決には影響を及ぼしません。



まずは、悪意のない暴力を受けている人が
ぼくの周りに居ないか、そこから考え直したい。




そして、周りに
いつもよりも慎重に目を向けてみると、
1つの疑問が生まれてくるのです。





愛する人の中身への自由は考えられているが、
愛する人の数の自由は考えられているだろうか。




ひとりの人間が、
ひとりの人間を愛し、
その愛は
“時間”という尺度で純度を確かめられる。


長く、ひとりを愛し続けることこそが
「純愛」であり、
“美しい行為”として崇め奉られる。






本当に、そうだろうか。






人類の繁栄のためには、
より多くの子孫を残す行為が
重要なことは自明であり、
そもそも我が国では、
少子高齢化という社会問題が
じわじわと首に手をかけている状況である。







「ポリアモリー」という言葉がある。

関与する全てのパートナーの同意を得て、
複数のパートナーとの間で
親密な関係を持つこと、
または持ちたいと願うこと。


25歳のぼくは、少し気になる。




ポリアモリーは、
「所有しない愛」という言葉で表現される。




ぼくは、ポリアモリーです。
と声高々に宣言できるほど
自分の思考を完全に把握している訳ではないし、
結婚はしたい。子どもも欲しい。



ただ、



好きな人たちと、
自他を傷つけることなく
長く愛し合えることを
魅力的に感じるぼくは病気だろうか。





“多様性”という言葉が、
マジョリティが、正義感とともに送り付ける
マイノリティを見下す差別用語に聞こえてきた。





好きなら
何をやってもいいと
思ってる。
近付きもせず
勝手に騒いで
消費して、
相手が
人であることを
忘れている。

   from 『あげくの果てのカノン』







文:そーかい







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