草々 @わっせ


こんにちは、TAIDENのnoteへようこそ。月曜担当のわっせです。


今週のテーマは「百人一首」です。これはぼくが提案したテーマです。


いつかのnoteにも書いたかもしれませんが、ぼくは百人一首が大好きです。たった百の和歌、31×100音しかないという、とてつもなく狭い枠組みのなかで、広く深く、淡白でありながら濃密な世界を織りなす、完成された一方で無限の延長のある芸術。日本文学におけるひとつの到達点であるとさえ思います。


かつて、ぼくは「人間、こと日本にルーツを持つ人をとことん還元していけば、百人一首にすべてが描かれている」と豪語しました。その考えはまだ変わっていません。それだけ、百人一首の世界は重層的で、本質的なのでしょう。選者と言われる藤原定家を、ぼくは敬服してやみません。でも大友黒主を一首くらい採用してもよかったんじゃないかな、なんて。案外定家も紀貫之の評価に引っ張られてたのかも?


先人と全然違うことを言って、めちゃくちゃ批判されることを恐れたのかもしれません。後世の人間にボロクソ言われたり。そういう権威主義的な定家像も嫌いではありません。権威主義は彼らの生き死にだったのですから。中世から近世にかけて、半ば神格化されていた彼の、人間的な側面といいましょうか。


さて、そろそろ本題。ぼくの一番好きな一首は、これです。

筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵となりぬる



13番、陽成院の和歌です。


筑波嶺とは、筑波山のこと。みなの川とは、男女川とも書き、筑波山のふもとを流れ、最終的に霞ヶ浦へと合流する川のことです。その川のように、あなたへ(あるかなきかの)の恋が少しずつ積もって、淵のように深くなっています。そんなラブレターがこの一首。


筑波山は、嶺がふたつあり、それぞれ男体山と女体山と呼ばれています。ぼくの通っていた高校から、晴れた日によく筑波山が見えたのをおぼえています。平坦な地形の多い東関東において、筑波山は数少ない山の名所です。高校の校歌にも、「筑波嶺」という言葉が出てきていました。


この和歌の詠まれた平安時代、筑波山は、とりわけ貴族たちの生活圏から大きく離れており、「どうやら遠くに筑波山という美しい山があるらしい」というふうに噂されていたようです。ですから、陽成院の和歌にあらわれる筑波山は、彼にとってこの上なく美しい、感動に満ちあふれた山であったに違いありません。


陽成院は、事実か後世の創作か政治的なものかわかりませんが、狂疾にとらわれた人であったようです。しかし、このラブレターの宛先、綏子内親王は、この和歌を受け取ってどう感じたでしょうか。情熱的で素直な言葉に、心から感動したのでは、とぼくは思います。


この和歌が好きな理由には、大きくふたつがあります。ひとつは、この和歌が、「男と女」を描いたものであることです。


先週のnoteで、ぼくは「性」をテーマに、男と女のセックスは描かないという旨の文章を書きました。しかし、それは男と女を描かないということではありません。むしろ、ぼくは(これはショーワ的でカビ臭いステレオタイプな考えかもしれませんが)、「ドラマツルギーあるいは物語というものは、男と女、つまり男性性と女性性から生まれる」と考えています。その過程におけるセックスを描く気があまりないだけで、物語には男と女(男性性と女性性)が必ず要るのではと思います。


「筑波山」や「みなの川」というモチーフの選び方。「落つる」という言葉を使うセンス。「淵」という言葉はいまのぼくたちから見ると、少し不穏です。しかしそれでも、陽成院の言葉は、心の底からのものに聞こえます。これは間違いなく男性から女性への愛の告白であり、淵という底の見えない"溜まり"に、なんらかの闇、ドラマをぼくは感じてしまいます。


ふたつめの理由は、これこそぼくが百人一首を好きな理由に合致するのですが、この和歌には人間の本質が描かれていると感じるからです。


下の句に注目してください。「恋ぞ積もりて淵となりぬる」です。この「恋」という文字を、何に変えてもこの和歌は成立するのではないか、とぼくは思います。


たとえば、「怒」に変えてみてはどうでしょう。「怒りぞ積もりて淵となりぬる」。イケる気がします。筑波山とみなの川で男と女を強くイメージさせているので、これは男と女の離縁状になってしまいます。


「哀」にしたらどうでしょう。「哀ぞ積もりて淵となりぬる」。これもイケますね。夫婦生活に翳りが見え始めています。うんうん、これもドラマだ。


「時」にしてみたら? 「時ぞ積もりて淵となりぬる」。これは熟年夫婦の和歌ですね。苦楽を共にしてきたかれらが生んだ淵は、あるいはさまざまな生き物にとって心地の良い場所になっているかもしれません。


陽成院の和歌のすごいところは、各々が勝手に一文字を変えたところで、すぐさまドラマが生まれてしまうという点にあります。圧倒的な汎用性。しかも男と女のドラマ。「あるかなきかの非常にミクロなものであっても、それが消えることなく少しずつ溜まって、淵のように底の見えないものになる」というのは、だれにとっても普遍性のある現象なのだとぼくは思います。陽成院にとっては、それが綏子内親王というひとりの女性への「恋」でした。


ぼくが、百人一首に人間のすべてが描かれていると考えるのには、こういう理由があります。なにかひとつを演繹して、そこに真理が見いだせる。陽成院の和歌は、ぼくにそのことを教えてくれたのです。ぼくにとって、百人一首はじまりの和歌であり、確実に見える世界を広げてくれた31文字でした。


読んでくれている方は、「恋」になにを入れますか?


「暇」だったらいいのにな、ってちょっと思います。やりたいことだらけ。

文:わっせ

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