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13日の金曜日。

ヨーロッパに来たとき、私は夜に爪を切ることができませんでした。それは祖母に夜に爪を切ると親の死に目に会えないと聞いたことがあったからでした。でもそれはかなり困難なことでした、日本との時差は7・8時間。どこの夜に設定すべきか。苦肉の策は朝起きてすぐ。。。そしたら日本はまだお昼であると理屈をつけて切っていました。日本に一時帰国で、爪を切るのを躊躇っていた私に母が、どうしたの?と聞くので今爪切ると、スペインは夜なんだよ。って応えたら大笑いをされました。いやあ、あなたのお母様が私にそう教えてくれたのよ。と答える私に母は、昔は家の中が暗かったので深爪しないようにそうしたんだろうと極めて合理的な答えをしてくれました。

1998年に亡くなった夫は、イギリス人で空軍のパイロットになり、その後民間航空会社で働き香港に住んでいました。夫は数学的、統計的、論理的、実用的に行動する人でした。だから、迷信とか、幽霊とか、霊魂とかいう話はまるっきり信じない。母と同じで私の爪切りの時間は笑いのタネでした。CAの東洋人たちは、部屋の番号や方角であたふたして、ホテルの幽霊話には事欠かないと。一度夫のバイクに13日の金曜日に乗るのを躊躇したら、大笑いをされました。13日の金曜日にパイロットが縁起が悪いので飛べません。なんて言ったら多分24時間飛行機は飛べないことになると。もちろんですけどね。

空軍時代。イギリス北部の怪談話で有名な訓練所に泊まることがあったそうです、そこは曰く付きの人里離れたところだったらしいです。夜遅く、何人かで村のパブでお酒を飲んで戻ったら、その一人の部屋のベッドが宙に浮いていたそうです。その人はこんなことは現実には起きないことなんだから、とそのベッドを床に押さえつけて寝たと朝話を聞いたらしいです。夫の反応も、まあよく飲んでいたからなあ。。ってことでした。私には何かを訴えようと現れた幽霊か霊魂を気の毒に感じました。

30年前は国際電話も度々できず、郵便もきっちり届かないスペイン暮らしでした。だから離れて暮らす両親の健康を気にして迷信深くなっていたのだろうと思います。その私をロジカルに教育がきっと夫の目標だったのでしょう。当時、彼は自分が亡くなっても、葬式はいらない、墓もいらない、いや遺体も無いものとと思えと。えーっ、遺体がなかったら私はどうすれば良いのって驚きでした。何しろ彼は自分に何かあったときには完全な献体をする手配をしていたのですから。日本の死んだらお葬式が基準の私にはその想像がどうもできませんでした。

当時のスペイン田舎暮らしでは、あちこちで車で轢き殺された、動物を目にしました。かなり残酷ですが、誰もそれを片付けることはせず、そのうち自然に形がなくなってしまいます。それを見た夫は あれが自然、死んでしまったら、肉体は生命のないただの肉の塊なのだから、それがまた木を育て他の動物や虫が食べ生命の循環となるそのようにずっとずっと言われたのです。不思議ですがこの教えは私の中に浸透してしまいました。

夫の趣味はグライダーでした。老後を夢に見てツインシートのモーターグライダーを退職後は手に入れて毎日飛ぶ、その夢が叶えれるのがスペインでした。家の横には滑走路があり、格納庫もあり、すぐ横にゴルフコース。。。今考えると良き時代のスペイン。ヨーロッパとはいえラテンの国、全てが緩く、人間が暖か、食べるものは安く美味しい、時間の進み方はスペイン独特。彼はイギリスからのグライダー仲間とともにほぼ毎日を朝はゴルフ、午後はフライト。。という充実した生活をしていました。一番充実している時間と彼は言いました。何しろ旅行をしなくていいのだからと。ホテル暮らしも飛行場ももうたくさんだと、退職後に旅行はしていません。

1997年の変換をする前の香港を見たいとの母の希望で、1995年に香港で母と会いその後日本に十日ほど帰国しました。そしてあの1月17日の関西淡路の震災を経験します。私にとって生まれて初めての恐ろしい地震経験でした。福島の地震に比べ、大阪で震度5ぐらいでしたから大したことはない。とはいえ揺れ方が違いました。携帯はありましたが、今の通信網ではありませんでした。だから神戸の惨状がはっきりわかったのは多分12時間以上経っていたと思います。あの経験を日本で両親とできた事はありがたかった。もしスペインで、地震のニュースを断片的に受け取っていたら、もっと不安は強かったでしょう。その後、帰国時に飛行機絡みた神戸の惨状は無残でした。それを境に私の人生にも大きな変化が起きました。それはちょっとした夫のお腹の具合が悪いという始まりでした。そして直腸癌の4ステージだということが夏前にわかったのです。あまりにも現実味のない話でした。彼は誰よりも健康で、よく食べ、ゴルフをして、人生を人一倍楽しみ。それが便秘になるようだということから問題が発覚したのです。そしてそれが手術になり、その後抗癌剤と放射線治療をしてという2年間の闘病になりました。論理的な夫はスペインの知り合いのお医者様から、専門文献を英語でもらい、自分の病気についてまる5日間それらを読み込み、その中でどの治療でどれぐらいの生存可能性があるか研究をしました。腫瘍専門医との話し合い、抗がん剤と放射線を同時治療をすることで5年後の生存確率を35%にする方法を選択しました。その治療を続けた後2ヶ月で、転移が発見されたときに、もう一切治療はしないで、自分のしたいことをして、潔く生きたいように生きる事を選択しました。

1997年、イギリスのダイアナ妃がなくなった頃、夫のライフクオリティが低下してきました。癌の肺への転移でした。腫瘍ドクターに私が話をしに行き、クオリテイを上げるための薬、モルヒネとかを処方してもらうことになりました。そして家の中でも酸素吸入器を使うというような方法で。病院に行く時はもう家には戻らない時それが彼の決断でした。その頃、夫に先に死んだら、わたしのところに時々、幽霊になって出てきて欲しい、夢にでもいいから出てきてね、と頼んだことがありました。その時の返事が、多分無理だと思う、僕にとって、肉体の死は存在のなくなることだから。その時は腹が立ちましたが、それが私の選んだ夫でした。

12月のクリスマス前に、だんだん物を飲み込めなくなり、食べにくくなり、どんどん痩せてくるのがわかりました。呼吸が苦しいので、動くのも億劫になり、車椅子で生活、眠るのもオットマンで眠っていました。ある日、夫の親友と外を散歩させて家に戻り、オットマンで彼は深い眠りに入っていました。夕食の用意ができたので、夫を起こしたら、あーあ、夢だったのか。。って言われたのです。後ほど、彼が説明したのは、わたしが起こす前に、彼はどんどん深い穴に落ちていっていたそうです、オレンジ色の光が底の方に見えていて落ちていく。あそこにいくとお母さんがいるんだと思ったらしいのに、わたしが呼び戻したらしいのです。だからまだこの苦しいのが続くのだとがっかりしたのだと。

そして2月13日の金曜日。スペイン人の友達のガン協会の会長が久しぶりに夫に会いにきてくれました。彼らが夫を見て私に、もう自宅で過ごせる時期を完全に過ぎているから、すぐに救急車で病院に運ぶべきだと忠告を受けました。入院する時はもう2度と帰らない時、と決めていた夫を説き伏せるのは大変でした。三人でなんとか説得して、私は救急車に同乗して入院となりました。夫の腫瘍担当のお医者様がそこで出会えたことで、夫は落ち着いて一言、前に言ったように延命をしてくれるなと伝えていました。医師はあなたとの約束はわかっているので大丈夫です、と彼のの指示で点滴が繋がれ、夫は静かに眠りに落ちました。私も夫の部屋のソファで何ヶ月ぶりかで数時間横になり眠りました。翌日14日のヴァレンタインデーの早朝夫が動いていたので、看護婦さんを呼び点滴を少し増やし、落ち着くようになりました。入院をして点滴が始まってから、酸素吸入をつけ、彼は穏やかにずっと眠っているかのようでした。でも話をしていると、手がピクピクと動きます。きっと声は聞こえているのです。夫の手に自分の頭をのせ、夫の体温を感じていました。その時に、決心ができました。もう夫を逝かせてあげなければならないんだと。彼にささやきました。もう一人でなんとか犬たちと一緒にやっていくからもう心配しないで。だからねママ、と妹のいる所に行って大丈夫だよ。そのうち私もそこにいくからずっと守って待っていてねと。

その瞬間、夫の口から大きな息がハーッと吐き出され、呼吸が停まりました、9時36分。夫は私の言葉を聞いて、やっと旅立つことに決めたのです。

夫が亡くなった後、私はやっぱり彼に聞きたいことがたくさんあり、そして近くににいて欲しいと思い、しばしば夜家の電気を消し、懐中電灯を手に家の中をうろうろしました。真夜中、丑三つ時、最も霊界と時間が合うのかもしれないと。心配した我が家の3匹のボーダーコリーが私の後を連なってきます。でも夫は現れません、夢にも現れません。本当に幽霊でいいから話がしたい。。その一心で探しました。

数ヶ月後、母が日本から来てくれました、私は三階ベッドルームで、母は二階の客室で眠っていました。その夢に夫が出てきました、そして私と夫は台所のナイフやスプーンの数を数えていました。母にそんな話をして一階のガレージを覗くと、ガレージのドアが開けっぱなしになっていました。どうやら鞄に入れたドアのリモートコントロールを触ったようで、夜の間ガレージが開きっぱなしだったようです。どうやら夫はそれを知らせるために夢に出てきたようです。

何も信じない、死んだら終わり。。と言っていた夫。でもね、今は死んでしまったら終わりではないとわかりました。自分がその人を大切に思い覚えている限り、完全に死んでしまうことはないのだと。13日の金曜日も夜の爪切りも、あちらにお知り合いが増えるとどうってことはないものとなりました。

今もやっぱりあちらという世界を信じていたい自分がいます。そしていつか会えると信じていたいのです。