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トム・サックス 〜愉快さと恐怖、白と赤〜

トム・サックス ティーセレモニー」をひとりで観に行った。
ずっと行きたいと思っていたものの、色々と予定が重なり最終日に滑り込む形になってしまった。数名の友人たちがこの展覧会の写真をSNS上にアップしているのを見たので、なんとなく雰囲気は知っていた。しかし、現実にトム・サックスの作品を観るのは初めてで、あらかじめのリサーチも全くせずに行ったためなのか、とても強烈なモヤモヤが残って帰宅する羽目になった。作品を観た日の夜の段階で、このモヤモヤとは一体なんなのかについての整理を行う。

ちなみにぼくは「現代美術の人」でもなければ、「彫刻の人」でも「茶道の人」でもない。それと「批評の人」でもない。ここでは純粋に「日本の人」として展示会に感じたことを書くことになりそうだ。

ティーセレモニーについて

まずはこの展覧会についての土台となるところを共有する。ぼくも会場に書いてあるこの文言から、この展示会を始めることになる。

ニューヨーク在住のトム・サックス(1966- )は、プラダのロゴが描かれた便器、エルメスの包装紙を模したマクドナルドのバリューセットなど、「手作り(ハンドメイド)の既製品(レディメイド)」とも評されるユーモアのある作品を制作してきました。世界各地で数多くの展覧会に参加し、世界のハイブランドからも高く評価されています。
「現代」と「茶の湯」が出会う「トム・サックス ティーセレモニー」は、アメリカ国内を巡回し、今回、日本で初めて開催する待望の展覧会です。トム・サックスは茶の湯の精神や価値観を、21世紀の宇宙開拓時代に必須の人間活動の一つとして考え、ティーセレモニー(茶会、茶道)に真摯に向き合っています。彼のユニークな発想や視点を通じて映る日本の姿は、新しい価値観や世界観を気づかせてくれる貴重な機会となるでしょう。
展覧会イントロダクションより)

展覧会を見終わって(色々な意味で)引っかかる。

彼のユニークな発想や視点を通じて映る日本の姿は、新しい価値観や世界観を気づかせてくれる貴重な機会となるでしょう。

特に、これについては、(色々な意味で)その通りだった。ただ、イントロダクションのような希望に満ちた意味合いではなく、恐怖を含んだものとして。
展覧会がどんな意図で組まれているのか、本当のところは図録を購入して知りたかったのだが、人気で売り切れてしまっていた。

鑑賞のしかた

おそらくこの展覧会のキーとなってくるのは、映像作品だ。彫刻よりも映像の方が、大衆に意味を伝えるメディアとしては優れている。順路的には1番に配置されているので、鑑賞順としては最初に来るべきものだったのかもしれないが、混雑の影響と映像の再生の関係から、最初に彫刻作品を観ることになった。ぼくは全体を2周したのち、映像作品を観て、鑑賞を終えるという順番をとった。展覧会の狙いか、作品それぞれにキャプションはなく、作品名が書かれたリーフレットが配られた。1周目は何も読まずに、2周目には作品名を確認しながら、鑑賞した。

これが展覧会のマップ。
THEATERが一番最初で、次は35番。そこから時計回りの順路が設定されている。つまり、HISTORICAL TEA ROOM→OUTER GARDEN→INNER GARDEN→CORRIDOR、という順路になる。

日本的なるものの解体と
アメリカ的ハンドメイドによる再構築

トム・サックスはちゃんと茶道をやっているらしい。この点に関しては、ぼくは茶道をやったことがないので、何も言えない。ただ、茶道を含め、なんとなくの「侘び寂び」や「禅」とは何か、といったものの輪郭を日本の人として自分自身が掴んでいる気がする。伝統をある程度重んじる家庭で育ったので、三月になると雛人形が、五月になると兜飾りが出していた。

ぼくはまずHISTORICAL TEA ROOMに入り、そういった「伝統的なるもの」を骨抜きにされた気分を味わった。ステーブ・ジョブスから逆輸入されたような「ZEN」は直喩的な形を持たなかった。Apple製品がZENの思想によって生み出されていたとしても、それは決して直喩的な形態ではなかったはずだ。だが、トム・サックスはとても直喩的にそれを表現していた。

Kabuto, 2015

Ladle Stand, 2015

観てもわかるし、タイトルでもわかるように、兜(=Kabuto)と柄杓(=Ladle)だ。しかし、それはぼくが知っている兜でも、柄杓でもない。だが、兜と柄杓に見える。

Bonsai, 2015

GARDENに入る。これは盆栽だ。いや、盆栽ではないけど。たしかに、盆栽に見える。

なんなのだろう。この『手作り(ハンドメイド)』は日本の文化をなめているように感じる(良いか悪いかは別として)。そもそもこれらの『手作り』とは、日本は古来からの伝統と、それに伴う職人の技術によるものであると思う。日本の人として、決して、このようなDIYのアメリカ的なるものが、日本の伝統の延長として受け入れられるはずがない。歴史の浅いアメリカ的な『手作り(=DIY)』とは言葉は同じでも概念が違うのだ。この作品たちは「アメリカ化した日本的なるもの」だと感じだ。

ではいったい「日本的なるもの」とは?

と語気を強めるような感じで作品を眺めていたのだが、じゃあいったい「日本的である」とはなんなのだろうか、と考えさせられる。

これらの写真は先述した、Kabuto・ Ladle Stand・Bonsaiのマテリアルが分かるように寄った写真だ。この写真をみると、Kabutoにはヘルメットや、防音イヤーマフ、それによくわからないヒダが黒い紐で止められている。Ladle Standならなんかよくわからない木材がノリみたいなもので止められている。 Bonsaiなら紙管が金物で止められていて、歯ブラシと綿棒が無数に伸びている。

じゃあ翻って、「日本的なる」兜や柄杓や盆栽が、本当のところどうなっているのか、ぼくには説明できるのだろうか。否だ。兜のヒダがどうなっているのか、ぼくには説明できないし、そもそも兜がどういった意味を持つものなのか、ぼくは理解していない。同じように柄杓と盆栽も、水をすくうやつだとか、小さい松みたいなやつだとかいう理解に留まってしまっているのだ。

だけれども、KabutoやLadle StandやBonsaiが、作品を観ると同時に、兜や柄杓や盆栽を表していると分かること、は何を意味するのだろう。それは、ぼくという個人が「日本的なるものの表象」だけを掴んでいる、という点を指摘されているとも言えるかもしれない。また、トム・サックスの作品に、本来の兜や柄杓や盆栽と同じような美しさを自分自身が感じることによって「日本的なアニミズムの喪失」を見せつけられているような気がする。

(左から)Bonsai, 2015   Tea House, 2011-12   Stupa, 2013

ぼくらがこの右側の作品をみて、「五重の塔だ!」ということは、どこまでが正しくて、どこまでが間違っているのだろう。奥の作品を見て「茶室だ!」ということは、どうなのだろう。ある種、この作品群を批評的に観ることなく、首肯する行為は非常に危険だと言っているのではないだろうか。大なり小なり、今の自分が「日本的なるもの」を扱えていない(むしろトム・サックスの方が扱いこなしている)という客観的な地点に立つ必要があるのではないだろうか。

アメリカによる支配

ぼくはあまり二項対立のような図式が好きではないけれども、今回ばかりは「日本vsアメリカ」について考えざるを得なかった。
HISTORICAL TEA ROOM、OUTER GARDEN、INNER GARDENとエリアを抜け、次にCORRIDORに入る。ここには印象的な掛け軸を模した作品が展示されている。

McDonald's, 2019

Tres Generaciones, 2019

これらのキーカラーは白と赤だ、それはアメリカの星条旗に入っているストライプのカラーでもあるし、日本の日の丸に入っているカラーでもある。そしてこれらの作品は2019年にーすなわちこの展覧会を想定してー制作されている。ぼくはこれを見て、アメリカと日本をさらに意識せずにはいられない。
日の丸と同じ構図のMcDonald'sは、その中央の赤い部分にマクドナルドのMのロゴマークと、アメリカの国旗が堂々と描かれている。そしてそれが日本的な掛け軸によって表現されている。そしてTres Generacionesは日の丸なのか、真ん中に丸が描かれるも、白と赤の構図は反転している。そしてその赤地のシートにはアメリカを代表するデルタ航空のロゴマークが、そのさらに下地にはアメリカが中心に描かれた地球儀(日本は入っていない)が描かれ"Working for Environmental Solutions"と綺麗な言葉がプリントされている。これが意味することはなんなのであろうか。掛け軸を換骨奪胎して、アメリカの世界的な権威を表現しているような気がした。果たして、ぼく深読みしすぎだろうか…?

これで1周したことになるが、正直な全体の感想は「日本を飲み込むアメリカ」を見せつけられたような気分になった。もちろんトム・サックスのとてもユニークな作品制作に、愉快さを感じる一方で。

Tea House, 2011-12

トム・サックスが兼ねてより使っていた白と赤のストライプも、ここではまた違った意味合いを見せてきそうだ。展示空間に使われている木材は基本的にこの種のペイントがなされている。これらが全てアメリカの星条旗のストライプを象徴するものだとしたら?(もちろん意図はないように思うが…)

考えすぎかもしれないが、さらに緊張しながら2周目に入った。
展示構成上、まず最初に現れるのはHISTORICAL TEA ROOMだ。これは「ティーセレモニー」と題した展示だから、とても大事な意味をなす空間に違いない。

HISTORICAL TEA ROOMの入り口

ぼくは2周目にて気づいた。この展示空間に入るときに正面に位置しているのは星条旗だ。日本には左右対称を重んじる文化こそなかったが、欧米は違う。ここでアメリカ的に大事な軸線にあるのは、星条旗だったのだ。そして、ここでは特に機能的にも形態的にも意味を為さない星条旗が掲げられている(それ以外のあらゆるマテリアルは機能的もしくは形態的意味を為していた)。まるで日本に寄り添ったように見せかけて、アメリカに支配されたかのような有様だ。

どこがHISTORICALなのだろうか。
これが意味するところはなんだろうか。

アメリカ・世界・宇宙に消費される

そしてこの後に映像作品を見た。白い椅子には赤字でNASAのロゴが入っているし、正面はシルバーの多面体に覆われていて、まるで宇宙船の中にいるような雰囲気だ。

映像の中で、トム・サックスはぎこちない「ガイジン」を演じていた。ティーセレモニーのための準備からお茶を立てるまでを収録した映像は、トム・サックスのコミカルで慣れてなさそうな動きや、ユニークな道具を使ってお茶を立てることによって、終始笑いを取っていた。

ぼくは2周も、さっき述べていたような観点から鑑賞してしまったから、なかなか笑うことができなかった。これを笑って、楽しかったと言って帰っていく日本人が不安にさえなった。

イントロダクションから引用したコメントを思い出したい。

彼のユニークな発想や視点を通じて映る日本の姿は、新しい価値観や世界観を気づかせてくれる貴重な機会となるでしょう。

果たしてトム・サックスは、彼のユニークさをもって「日本」を再構築し、ぼくに新しい価値観や世界観に気づかせてくれたのだろうか。この展覧会は「茶の湯」を用いて「日本をアメリカ化する」試みにさえも感じたのは、ぼくだけなのだろうか。

このような楽しい展覧会によって、質素を重んじる文化は、欲望の宇宙開発へとチューニングされるのであろうか。ぼくらの生活はすでにアメリカ型の資本主義に馴染み、あらゆるものを大量に消費し続けることから逃れるのは難しい。そのオルタナティブ的存在のDIYとしての「手作り」もまた、アメリカ的なるものでしかないのだ。ぼくは直感的にではあるが、別のオルタナティブが求められている気がした。もしも「日本の文化や伝統」が、「アメリカ的」に組み込まれるのだとしたら、それは喪失に他ならない。これ以上のアメリカ化、ひいてはグローバル化をどう捉えるのか。そして、そこにもしかすると、宇宙が加わってくるかもしれない。これらを考えるきっかけをくれた展覧会だった。

とはいえ、スティーブ・ジョブスが「日本の文化や伝統」をベースにつくったMacBookを使って、このようなテキストを書いているような矛盾を、ぼくはどうとも説明できないのが苦しいのだけれども。


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