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能力主義という呪い・後編

これは前編の続きである。


当然、多くのFラン大卒の学力は高卒と大差ない。しかし、いくらFランとはいえ卒業すれば一応「大卒」の肩書きは手に入る。これは個人にとっては利益になるかもしれない。しかし「大卒」という肩書きそのものには何の生産性も無いわけで社会全体にとっては良いこととはいえない。むしろ、それなりの大卒と同じ区分になり見分けがつきにくくなることで、害悪となるかもしれない。

これも囚人のジレンマ(ご存知ない方は各自、検索推奨)の一種で、個人の利益の集合は社会の利益には結びつかないのだ。やや極端な表現をすると、「社会全体にとっては」実質的に、Fラン大学生の殆どは4年間ニートをやっていることと何も変わらない。「個人にとっては」高卒レベルの学力(下手すれば中卒レベルかもしれない)で大卒になれるのだからコスパは良い。

このような明らかにこの競争に適性がない者まで競争に巻き込んで、社会全体の利益を下げてしまうことが能力主義の決定的な欠点である。しかし、このことはあまり周知されてないように感じる。

ではこの「呪い」から解放するにはどうすれば良いのだろうか?

解決策は囚人のジレンマを避けるように、個人の利益と社会の利益を一致させることだ。

先程の学歴社会の例だと、一定以上の学力のない者に高校、大学等の義務教育の範囲を超えた学校に進学する権利を制限するということが考えられる。そうすると、
中卒、高卒が大量に発生する→
大卒が足りなくなり、それ未満の学歴の者にも採用枠がこれまでと比較しても拡大する→
中卒、高卒でもそれなりに生きていけるようになる
このように「無理して進学しない」という選択が社会の利益だけでなく、個人の利益にも変化していく。

以上の例から鑑みるに、能力主義を上手く運用するには囚人のジレンマが起こらないかどうかを検討する必要があると考えられる。

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