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受け入れてくれる場所に身を置くことの大切さ

昨日僕が毎日更新しているこの『note』というサービスの勉強会に、参加してきた。

どう書こうかと迷っていたら、たまたま席が近くてパートナーになったまえゆかさんが素晴らしいnoteをその日のうちに見事に書き上げていたので、読んでいただくと会の雰囲気が驚くほど伝わると思う。

#note勉強会 に参加して気付いた「アイメッセージ」の力|まえゆか/前田有香 @yukacharin|note(ノート)https://note.mu/yukacharin/n/nd8207bc7ff20





今日本に暮らしていて、息苦しさが一ミリもない、という人は少ないと思う。
その息苦しさは、他人との、集団の中での、常識や慣習の中でのあら探しを、その違いを見つけて叩くこと、叩かれることが頻発しているので、息を潜めて同じフリをしたり、何もしない、何も感じていないフリをしてやり過ごすことが、あたかも得策であるようになってしまっているからのように思う。


でも僕は違いにこそ、違うことこそが生物の、命のきらめきであり、本質だと思っている。
なぜなら同じが最適なら細胞分裂で繁殖していたはずだし、性別でわざわざ細胞を掛け合わせて、まったく新しい個体をわざわざ生み出す手間を経ることが説明できないからだ。

手間や時間をかけても、生物は、命は、違いをわざわざ生み出すことを選んだと言える。
それだけ命にとってそれぞれの個体が違うことには価値があるからだ。


でも僕たちはそれを忘れてしまって、お互いの違いを許せないでいる。
それが息苦しさの源であり、そこが変わらない限り息苦しさも変わらない。


でも解決策はとてもシンプルだ。
お互いに違うことを認め、違いを尊いものとし、愛し合うこと、許し合うことだ。

いいね、いいじゃん、最高、それおもしろいね、気にしない気にしない、そう?そこがいいじゃん。
などといった相手の動きや考えに対する肯定的な姿勢。
それが人々が違いを表に安心して出せる最初のステップであり、大きな一歩でもある。

そういう一見当たり前のようで難しく、でもその難しいことを当たり前に見えるように細かに気配りをして、空間を命が安心するように、命の違いに対して肯定的であれるように保たれていた空間だったからこそ、命が喜ぶ時間に、空間になった。

それが昨日参加したnote勉強会という場所の良さであったし、それが参加者に人に話したい、伝えたいと思ってもらえる大きな要因であり、僕自身が参加してほんとうによかったなぁと思えた最大の理由のように思えた。

主催の、参加者の皆さま、ほんとうにありがとうございました。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
一緒に居る人や居場所は、じぶんで選べる。











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