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誰が為に鐘はなる

俺はいいけど、矢沢が何ていうかな。


矢沢永吉の有名な名言があるが、これは今のわたし以外の誰かをわたしの中に宿していて、その誰かと今のわたしが話し合って、今のわたしの在り方を決めている、とも言える。



文章は誰に何を届けたいか、届けたい相手を想像して書くと、よりその文章は届きやすくなる。
という話しを依然どこかで聞いた。


僕は毎日更新しているこのnoteを書く前の、0日のじぶんに向けて書いている。

そのじぶんとは、何者でもない、取るに足らないダメなじぶん。
と思っていた頃のじぶんである。


もちろん毎日noteを書いているからと言って何者かになれたわけでもないし、他者から見れば取るに足らないことを書いているのは間違いない。



けれど、数は少ないけれども読んでくれている人やリアクションを、コメントをくれる人もいたりして、そのあたたかさに、そしてじぶんが続けていくなかで、心の底から少しずつそれでもいいじゃないか、と思えたことは大きかった。

何者でもない、取るに足らないことを思ったり、考えたり、実際にしたりすることも生きていくことの一部で、それはムダじゃないし、無かったことには、無いものにはしたくない、と思えた。


でも書く前の僕は、たくさんの思いや考えや行動を無いことにしてしまっていた。

取るに足らないと、ムダだと、役に立たないと思いたくなくて。言われたくなくて。


そしてふと思った。
昔の僕のようにしてしまっている人は僕以外にも居るのではないか?
と。


そんな人たちに、昔の僕に、向けて。
何てことない僕が、何てことないことを、毎日何となく書いている。

それによって、あなたが今思っていることも、感じていることもムダじゃないし、無いことにしないでね、確かにそこに在りますよ。

と伝えられたら、思ってもらえたら、認められたならと思って、僕は今日も、まぁ何てことない文章を書いているというわけなのです。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
いつも読んでくれている人、たまに読んでくれている人、今日初めて読んでくれた人、ありがとう。
僕の方が皆さんにたくさんのものをもらっています。





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