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学びを止めるな!教育を過剰と欠乏の2つの問題系から眺めること

※本記事は投げ銭制です

こんにちは、こばやししょうたです。
先日書いたnoteが自分のための記事と言いながらも、たくさんの人に読んでもらえたようで嬉しく思っています。

関連して、ゆーのさんの記事が現象学の観点から、ぼくが書きたかった内容と同じような論点について議論しています。ぜひ読んでみてください。

さて、今日はメモとしてFacebookに投稿した内容をnoteにしてほしいという嬉しいコメントをいただいたので、短めですが簡単にまとめています。テーマは「教育を過剰と欠乏の2つの問題系から眺めること」についてです。

「おわりに」にも書いていますが、自分自身書いていてかなり悩みのある文章ですので、読んでいただける方はぜひ最後までご一読ください。

教育社会学とは?

以下は今朝、改めて教育学年報の教育研究の新章より、仁平さんが担当している教育社会学の章を読んでいての感想、思考の発散のメモです。

教育学年報自体についてはここでは省略をしますが、ここで紹介している「教育研究の新章」は、2019年に教育学年報の新たなシリーズとして出版された第三期の記念すべき一冊目です。全14章からなっており、教育哲学、高等教育学、教育社会学、教育方法学、教育心理学、発達心理学、などさまざまな教育◯◯学の、過去10年のレビュー論文が掲載されています。

今回読んでいたのは教育社会学の章。仁平典宏さんが担当されている「アクティベーション的展開とその外部」という章です。

皆さんは「教育社会学」という学問にどのようなイメージを持っているでしょうか。ぼくはこの章を読むまでの印象は、苅谷さんの「学力と階層」や松岡さんの「教育格差」に代表されるような、【教育システムに隠れている格差を取り扱う学問である】というものでした。この章の主題は正確にはここではないのですが、今回はこの点を中心に見ていきます。

過剰の問題系から、欠乏の問題系へ

繰り返しになりますが、一般的に「教育社会学」という学問は今でこそ隠れた不平等を暴くような学問に見えているように思います。

しかし以前はむしろ「飽和した教育の抑圧性」に注意を促す方面に注目が集まっていました。この起点になるのが1990年代なのですが、この教育社会学の主要テーマのシフトを仁平さんは「教育の過剰による管理・抑圧の問題系から、教育の欠乏による不平等の問題系へ」と記しています。

実際教育社会学の研究者として思い浮かぶ方は、ぼくの場合は恥ずかしながら「教育の欠乏による不平等」を提起する方がほとんどです。

コロナ下におけるスローガン「学びを止めるな」

さてでは今の現状とこの問題系の移行について考えてみます。

仁平さんの図式に対応して考えれば、今休学の中で掲げられるスローガン「学びを止めるな」は、「教育の欠乏」を問題として捉え、その問題の解決のためにICTを活用しようという活動と捉えることができます。あらかじめ予防線を貼りますが、ぼく自身はこの活動を良い悪いと考えているわけではなく、一つの思考実験として下記のように考えてみようと思います。

「教育の欠乏」に対して、「教育の過剰」を問題視していたとき、そこで対象となっていたのは【教育は「よいもの」であり、教育は制度であるという前提】でした。そしてこの点が「学びを止めるな」という「教育の欠乏」への対策では覆い隠されているように思えます。あえて意地悪な言い方をすれば、「学びを止めない」ために学校教育を家庭に持ち込む仕組みは、【家庭が学校に侵食される現象】と捉えることもできるでしょう。

ICTは教育を拘束/開放するのか

ここでICTと教育の関係性について考えてみましょう。物理的に学校に通えない中で「学びを止めない」以上、そこでフルに活用されるのはICTです。もちろんプリントを郵送や配達している学校があるのも事実ですが、ここでは論を簡潔にするために、ICTの活用を前提に考えます。

さて、思い返せばカーンアカデミーの代表サルマン・カーンがいかに学校教育が非人間的かをTED Talksで示したとき、そこでは【ICTを教育に活用することで教育を開放すること】が期待されていました。伝統的な教室図式上、一斉授業が当たり前だったところを、ICTを活用すれば個々人にあわせた学びが展開でき、学びが開放される、そんなイメージを持っていたと思います。その一例がMOOCsやOCWに代表される「オープンエデュケーション」という運動だったと考えることができます。

しかしこのときオープンエデュケーションを始めとした活動の恩恵を受けたのは、今思えば小学生ながらMITへの入学を許可された子供に代表される「学校化されていない地域の子ども達」と修士/博士課程を修了して尚学びに貪欲な「学校社会をハックしてきた高等遊民達」でした。

つまり教育は開放されず、学校化されていない人々と、学校化社会を乗りこなした人々だけが恩恵を受けたわけです。これによって、「オンラインで学ぶことは難しい」と考えられ、それをサポートしなければ人は学ばないのだ、という考えが定説となります。

またコンテンツだけがあっても、みな学び方がわからないのだ、という仮説のもと、「コンテンツ」ではなくその使い方である「ナレッジ」をオープンにすべし、という主張も強調されるようになりました。

欠乏の対策としての「学びを止めるな」を過剰の問題として捉えること

さて改めて「学びを止めるな」に返りましょう。今、コロナ下において「学びを止めない」ために、当時オープンになったコンテンツたちに改めて注目が集まっています。

また当時の課題であった、その使い方(ナレッジ)は、その喫緊性も相まって、ブログ記事やセミナー、YouTubeといった形で加速度的に供給が増えている印象です。事実ぼくが働いているミテモでもそういったセミナーを開催し、2〜3日で100名が集まるような状態となっています。

一方で、機器の不足やデジタル・デバイドという観点から、その不平等性にも注目が集まっています。

最初の議論に戻れば、恐らく教育は今飽和していて、かつ欠乏しています。どちらの問題も深刻ですが、ここ数年の流れは欠乏への注目が集まっていたために、そちらの議論が多いように感じています。

みんなが欠乏に注目するからこそ、あえて飽和について議論することが重要かもしれません。その手がかりになりそうなものとして、今は「脱学校の社会」を読んでいますが、まだまだ答えは見えません。

おわりに

この文章はTwitterに連続投稿した内容を、note用にまとめ直したものです。今「脱学校の社会」を読みながら、「学校」という制度の「飽和の問題」に着目をしながらも、コロナ下における人々の反応を見ては「欠乏の問題」にも考えを巡らせています。

またこういった議論を展開した中で、自分がどの立場からものを言っているのか、というのも非常に大きな問題となります。教育現場にいない、何なら一学生の身でありながら、学びを止めないための活動に水を指すような内容を書くことへの心理的な抵抗も感じています。ただもうここは逆張りで、だからこそ書こうとも捉えられるわけなのであえて論調をそのままに公開することにします。

改めてTwitterから書き直す中で、書ききれていない部分や論理展開が弱い部分もありますが、今に悩む方の思考の補助になれば嬉しいです。

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