団地の遊び 盆踊り

盆踊り

 夏の風物詩、盆踊り。団地なので、自治会というものがありーーー団地ではなくてもあるだろうけどーーー当然、そこが仕切って、いろいろやっていた。 
 櫓(やぐら)の組み立て、出店の手配、そういったものを、当然、自治会がやっていたようである。あの、櫓の太鼓も、用意したのだろうか、それとも櫓とセットなのだろうか、と友達と話したのを覚えている。答えは今でも出ていない。
 団地中央は、ストアやら商店街やら、ちょっとした公園やら、広場やら、いろいろあるわけだが、盆踊りは、中央グラウンドで行われた。
 日頃、このグラウンドは、誰が使ってもいいようだが、主に野球とかだが、実際使用したことは、子供の頃はなかった。
 なぜなら、ガキが遊んでいると、追い出されるからである。このへんは、完全に弱肉強食といってよく、力のない者は、好きな所で遊ぶことはできない。
 よって中央グラウンドを、実際使えたのは、中学生になってからだが、その頃はもう、ここで遊ぶ用事というのは、なくなっていた。
 その中央グラウンドで、盆踊りは行われた。櫓が、グラウンドの真ん中に作られていた。テキ屋が、あちこちにあった。
 なぜか、同級生が、テキ屋を手伝っていた。これはなんなのか、今もってわからない。
 東京音頭が流れている。この曲を聞くと、なんとなくワクワク感がある。
 櫓の回りを、浴衣を着たおばさんたちが踊っている。知ってるおばさんが何人もいて、驚いた。べつに驚くことはないのだが、なんでだか、驚いた。あのおばさんも笑顔で踊ったりするのか、なんかそんなふうに思った。
 実にみんな楽しそうな顔をしていた。
 実際、ウキウキ感はあるのだが、どちらかといえば、警戒感のほうが強かった。なぜなら、団地外の、人間も来ていて、もちろん団地の人間の顔を全員知ってるわけではないが、なにか空気感の違う雰囲気の異なる集団みたいのもいて、なんとなく、怖いという気持ちがあった。
 ところで、子供の頃、団地の盆踊りに行ったという明確な記憶は、実はあまりなかった。
 誰と行ったのか、そのへんも、まるで覚えていない。
 記憶が、曖昧断片になっている。
 一つ、ものすごく確実に覚えているのは、タコ焼きのことである。
 テキ屋で買ったタコ焼きで、生まれて初めて食べた。すさまじく美味く感じた。要するに、超おいしかった。なので、腹一杯食べた。多分、小五の時だと思う。 
 すると、その夜、ものスゴく、気持ち悪くなった。やがて腹が痛くなる。吐きたくなる。寝転がって動けなくなった。
 あまりにも苦しいので、近所の病院で、夜でも特別に診てもらった。
 軽い食当たりであった。軽い?こんなに苦しいのに軽いだと?本気でそう思った。吐きたいのに吐けず、痛いのに出ない、そして腹の凄まじい不快感。
 夜中まで苦しんだ。
 翌日、やっと、なんとか治まった。
 この事が原因で、タコ焼きは十年以上、いや、もっと、食べなくなった。やっと食べたのは、三十才過ぎたあたりである、
 ともかくツラかった。
 というわけで、盆踊りの楽しい思い出というのは、ない。
 ウキウキ感だけで、いい事なんぞはなかった。
 その後、団地の盆踊りは何年間か中止になった。理由は、ガラ悪い奴らが集まって、危ないというものであった。
 中学から高校の時だった。つまり、そのガラ悪い奴ら、というのは、団地に住んでいた子供たちが、中高生になった姿で、団地の自治会の人たちは、その辺をよくわかっていない、と、そのガラ悪いヤツの一人が言っていた。
 とはいえ、団地出身、というか今でも住んでる奴らだけならまだマシだが、その友達とかいうヤツらが輪をかけてガラ悪いというわけで、やはり、小さい子供もたくさん来るのだから、仕方ないのかもしれない。
 そんなわけで、団地中に響く、東京音頭は、何年間か聞くことのない夏が存在したのだった。

#創作大賞2023
#エッセイ部門

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