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戦争ツアーモスタル - サラエボから移動

サラエボから、こちらもボスニア紛争の激戦地であるモスタルに移動する。

かなり大規模な戦争になり、セルビアだけではなくクロアチアとの戦いも行われたモスタル。今は再建されている、戦争で壊された橋が世界遺産にも登録されている。

昔なにかのテレビでこの映像を見たときに、いつか見に行きたいと思っていたのだ。


サラエボからモスタルへ

サラエボからモスタルへは電車での移動が安いらしい。(バスも運行しているけれど)

そんなに便数があるわけではないので、ボスニア鉄道のHPから最新の時刻表を確認して電車に向かったほうが良い。

バスターミナルは閑散としている。

窓口も閑散としている。

2023年11月時点で、料金は14.1兌換マルクだった。

電車は時間通りにプラットフォームに到着し、スムーズにモスタルまでたどり着く。

終点ではないので、降り過ごさないように注意。

モスタル散策

モスタル自体は特に見て「うわー」と感動するような場所は少ない。というか無いと言っても良いかもしれない。

ボスニア紛争の知識を事前インプットしておき、各地で何が起こったのかということに思いを馳せながら眺めていく。

スタリ・モスト

多くの人がこの橋を見にモスタルを訪れると思う。モスタル中心地を流れる川の東西を結ぶ橋。

モスタル自体がこの川を中心に東がボスニア系、西がクロアチア系として、東西に分断されている。(今はそこまでの垣根は無いように思うけど)

紛争中に、この橋は爆破され崩壊したが、2004年に再建され、負の遺産として世界遺産に登録されている。

橋には、「Don’t Forget 1993」と書かれた石が置かれている。この当時を生きた人にとっては衝撃的な出来事だったであろうことは想像に難くない。

今では友好の架け橋と捉えることもできるが、にこやか晴れやかな顔でポーズを決めて橋との写真を撮っている人たちを横から眺めると少し不思議な気持ちになった。

いや、それも平和になってよかったと思うべきなのだろうか。

夜はライトアップされる。

旧市街

橋の周辺には、石畳で古い街並みを残した旧市街ストリートが広がっている。

基本的には観光のための店が軒を連ねており、ハイシーズンの日中は多くの日帰り観光客が訪れ、前に進めない程になるという。

早朝や夜であれば店は開いていないが、その雰囲気をしっかりと味わうことができる。

スナイパータワーと数々の銃痕

モスタルには、スナイパータワーと呼ばれる建物がある。

すでに廃棄された建物だが、紛争中はこの建物にスナイパーが駐留し、道を行き交う人を狙撃していたという。

今は出入り口が封鎖されているが、地元の若者が出入りできるように勝手にレンガを積み重ね、塀をよじ登り中に入ることができる。(自己責任)

ちなみに、夜はドラッグやらに侵された若者のたまり場になっているとのことなので、中に入る場合は明るいうちにするべき。(自己責任)

中に入ると、朽ち果てた感じとここでは多くの狙撃がされていたという事実でかなり恐ろしい。外からはむき出しなので、もし警察とかに見つかったら何か言われるのではないかという気もする。

足早に中を散策する。

中には、多くのアートと言うべきなのか絵が描かれている。まぁあまり治安はよくなさそう。

とりあえず上から、スナイパーはこんな景色を眺めていたのかと考えに耽る。

長居するべき場所ではないだろう。

また、紛争の跡と言うべきでは、サラエボ以上に激戦の跡が残る建物が存在している。

夜に見ると更に怖い。

戦争の前線となった通りには多くのキズだらけの建物がある一方で学校も存在する。そこを通って学校に通う子どもたちはこの光景に何を思うのだろうか。

私がカメラを持って建物を撮っていたら、通りがかりの少年が写真撮ってくれと声をかけてきた。

銃痕だらけの建物の前で、笑顔でポーズを取る少年たち。

彼らのバックグラウンドは私には判別がつかないが、未来を担う子どもたちが今は楽しそうに学校に通っているのは素直に良かったと思う。

周辺の観光地と戦争体験の話(ミランツアー)

私が宿泊したMiran’s Hostelでは、希望者がいればほぼ毎日ヘルツェゴビナ&戦争ツアーというものを開催している。(合計55ユーロ)

モスタル周辺の自然の見どころと、じっさいに紛争を経験したホステルオーナーのミランの経験談を聞くことができる。

正直ツアー内容としては高いように思うが、実際の紛争経験者の話を聞くことができるという価値は、お金とはまた別にあるのではないかと考え参加を決めた。

他の参加者も同じ気持ちであったと願っている。

ブラガイ

洞窟に食い込むように存在する教会と、その洞窟のコントラストが素敵。

かなりの水流があるが、この水源がどこにあるのかまだわかっていないらしい。

また、少し上にある洞穴みたいなところからは、人骨が発見されたとか。色々とミステリーがある場所です。

ポチテリ

とても古い、崖に作られた集落のようなところ。

紛争の前には数百人の住人が住んでおり、小学校もあったようだが、紛争時に多くが壊されてしまい今は数人でここ10年で生まれた子供も2人くらい。

今ではその集落の景観を眺めるために多くの人が訪れているようだった。

クラヴィカの滝

32mの高さをもつ滝。

正直。プリトヴィツェ湖群国立公園に行った後だったので感動は薄い。

希望者は水の中に入ることができるが、ダイビングとかでもないので正直大した経験にもならないと思う。

山頂 (Vidikovac Fortica)

モスタルを見渡すことができる山頂。スカイウォーク的なものもある。

例によって、紛争時はここにセルビア軍が駐留し、前線を押せよ押されよしていたらしい。

30年たった今でも、使用済みの薬莢がそこら辺に落ちていたりする。

ここでは、ミランが当時の経験を語ってくれた。

今までユーゴスラビアとして教育を受けていたのに、突然別々の旗をもたせられたこと。

紛争開始時に国境を開けている外国へ逃げるかどうかの判断を迫られ、父親の判断でモスタルに残ることにしたこと。

食べるものもなかったときに支援に来ていたスペイン人の軍人がバナナを食べていたのを見かけ、くれるように頼んでみたら、女を連れてきたらあげるよと言われたこと。

多くのジャーナリストやバックパッカーのような人たちが来て、写真を撮るだけで支援なく土地を去っていったこと。

どうしても車で市外へ逃げなければならなくなった時、道路を横切るものには銃撃が浴びせられており、運良く車は通過できたが道には多くの死体が倒れていたこと。

父親は生き残り8年前に他界したが。PTSDに悩まされたりと決して良い人生ではなかったと思うと語ってくれたこと。

実際に経験した世代にとってはいつまでも忘れられない記憶だが、子どもたちは分け隔てなく学校で教育を受けられていること。
戦争の経験が自分を強くし、何があっても動じなくなったように感じるということ。

今はセルビアにもクロアチアにも多くの友人がいるし、今を幸せに生きているということ。

などなど、他にも色々あったのだが、リアルな経験を持って語られる話は、色々と考えさせられることがあった。

つまらなそうな顔をしながら話を聞き、終わった後にはあくびを絶やすことのなかったオランダ人は何を思っていたのだろう。

あとがき

私はモスタルに来て良かったし、少しツアー料金は高いと感じながらも生の話を聞けたのは良い経験だったと思う。

私が生きている間に、世界のどこかで必ず紛争は起こるだろうし、なんだったら今もイスラエル-ハマス問題やロシア-ウクライナ問題は現在進行中である。

自分にできることがあるかはまだわからない。少なくとも、起きていることに対して無知・無関心ではいないようにしたいと思った。

モスタルを離れた後、クロアチア人の女性とゲストハウスで出会い少し会話した。彼女は、旧ユーゴスラビアの人たちは今でも仲が悪いと言っていた。

また、「日本人はアメリカ人についてどう思ってるの? 普通に何も問題なくアメリカ人は日本を旅行してるの??」と聞かれ、私が、「今は多くの日本人がアメリカ人に対して悪の感情を抱いているわけではないと思うし、普通に観光でいっぱい来ているよ」と答えると、

「それが信じられない。クロアチア人だったら未だにみんなアメリカ人のこと嫌いだと思う。」と返された。

確かに、日本人の誰もが原爆投下を含めた戦争のことをある程度知って入るが、私が彼女に答えたようにそのせいでアメリカ人を嫌い・憎いと思っている人はあまりいないのではないだろうか。

ボスニア紛争が終わり30年、太平洋戦争が終わり約80年。時間が変えていくのか、国民性やその後の国同士の関わり方が変えていくのか。

何にせよミランの子どもたちがそうであるように、別け隔てなく共存できる世界になるに越したことはないだろう。

ちなみに彼女も、「みんなが協力しながら、それぞれがハッピーに過ごせば良いのに。戦争はクレイジーだわ。」と言っていた。

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