西洋近代の人権・民主主義は、半分詐欺。






だよね。

その辺は、光武帝は本物だったかもな。

より

上記文抜粋
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人の貴さは天の定め、法は万人に平等なり

 劉秀が統一後に目指した世界とはどんなものだったか。
 その姿は統一前から少しずつ政策に現れていた。まずは奴婢の解放令である。
 建武二年五月癸未(西暦26年6月25日)。嫁に出した娘、売られた子どもで親元に帰りたい者は、すべてその願い通りとし、それを拒否する者は法律によって処罰する。
 建武六年(西暦30年)十一月。王莽の時代の下級役人や民衆で罪に問われて奴婢となった者で、漢の時代の法律によるものでないものは免じて庶人とする。
 建武七年五月甲寅(西暦31年6月30日)。下級役人や民衆で飢饉や戦乱に遭ったもの、青州、徐州で賊によりさらわれて奴婢や妻とされた者、去りたい者も残りたい者、自由にすべてその願い通りとし、それを拒否する者には売人法を適用する。
 建武十二年三月癸酉(西暦36年4月23日)。隴や蜀でさらわれて奴婢とされた者で、自ら訴え出たもの、判決が出ていない者(及獄官未報)とすべて庶人とする。
 建武十三年十二月甲寅(西暦38年1月24日)。益州で建武八年以降にさらわれて奴婢となった者は庶人とする。また身を売って他人の妻となったもので去りたいものはすべてこれを聞き入れよ。敢えて引き留める者は、青州、徐州同様に略人法を適用する。
 建武十四年(西暦38年)十二月。益州、涼州で建武八年以降に申告した奴婢は、裁判なしで庶人とし、売った者は代金を返さなくてよいとした。奴婢の多くは、夫が妻子を売るケースが多いのだが、そのとき夫は代金を返さなくても妻子を取り戻せるということである。
 何度も出しているのは、効果がないからではなく、新しく敵地を平定するたびに解放令を出しているためである。あくまでもそのときの解放令であるから、自国領でしか無意味だからである。
 また文面に出てくる売人法と略人法は、劉秀の時代に創設された法律であるとされる。売人法は人を売ることの罪を決めた法律であり、略人法とは人をさらったときの罪を決めた法律である。
 この時代の民間の奴婢の多くは、貧乏であるために妻や子を売るケースと、戦争で女や子どもを略奪してそのまま妻や奴婢にするケースである。そこで劉秀は、人身売買についての「売人法」を制定し、人さらいについての「略人法」を制定した。二つの奴婢の成立状況を狙い打ちにした法律を制定したのである。
 さらに劉秀は歴史的にも驚くべき宣言を行う。
 
 建武十一年春二月己卯(西暦35年3月6日)
「この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。(天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。)」
 
 という詔書を発行し、法律の改革を進めた。人が貴い存在であることは、天地、すなわちこの宇宙自体が持つ自然の性質、言うなれば重力のように誰にも変えられない天与のものとし、貴さの起源が人間存在にある以上、貴族も良民も奴婢も貴さは同じであり、同じ刑法が適用されるのだ、というのである。現代の人権天賦説に近いものと言えよう。この言葉は中国における人権宣言として、アメリカの独立宣言にある「人はみな平等に造られている(All men are created equal.)」に相当するものとして注目されている。
 劉秀はこの年に、不平等だった法律を具体的に一つ一つ排除を進めている。春二月、
「あえて奴婢に焼き印したものは、法律の通りに処罰し、その焼き印された者を庶人となす」
 冬十月には、奴婢が弓を射て人を傷つけたときに死刑となる法律を削除した。
 「天地之性人為貴」という言葉自体は『孝経』からの引用であり、曽子の質問に孔子が答えた言葉である。こうした昔から知られた理想を示す言葉、悪く言えば建前だけの空言に、実のある改革を付け加えることで、実際に意味のあるものにしてしまうところに劉秀のすごさがある。聖典に根拠を置くことで誰にも反論できなくしてしまうのである。
 これら一連の詔書は多くの人を驚かせ、感嘆させた。代表的な人物が次の次の代の皇帝である章帝の時代に宰相になる若き俊才第五倫である。第五倫は詔書を読むたびに「この方こそ真に聖主である、何が何でもお会いしたいものだ」と嘆息した。この発言に同僚たちは失笑して、「君は上司の将軍すら説得できないくせに、万乗の陛下を動かせるわけがない」とバカにしたが、「いまだ私を知る者に会うことなく、行く道が違うからだ」と答えた。
 第五倫は、劉秀を志と理想を同じくする同志であると考えていたことがわかる。周囲に自らの理想を理解する者もなく孤高に生きていた第五倫は、何と遙か天上の同じ世界を夢見る同志を見つけたのである。
 奴婢の法的立場は大きく改善された。例を挙げよう。皇帝の側近である常侍の樊豊の妻が自分の家の婢を殺す事件が起こった。洛陽の県令祝良は遙か上の権力者である樊豊の妻を捕まえて死刑にしたのである。
 あるいは県令の子どもが奴と弩で遊んでいたところ、奴が誤って子どもを射て殺してしまう事件があったが、事故としてお咎めなしとされた。奴婢と良民の法律上の平等が守られていたのである。そのため奴婢に対する偏見も少なくなっていた。後漢の第六代皇帝安帝の母は婢であったほどである。
 劉秀は奴婢という制度をなくしたわけではない。しかし前漢の頃、奴婢は奴隷として市場で公然と競売にかけて売られていたが、どうやら後漢では人身売買は禁止されたようである。


 人身売買の禁止は既に王莽が一度挑戦し、混乱の中で挫折し、法令を撤回している。このときの王莽の人身売買禁止の詔から当時の状況が推察できる。王莽は、秦王朝は人間を牛馬と同じように平然と市場で売買する無道な政府であったと非難し、奴婢を私属と名称を変えて売買を禁止すると宣言しているのである。
 このことは秦では人身売買は完全に合法であったこと、前漢でも人身売買が行われていたこと、しかし秦を無道と非難し、前漢について述べないことから、前漢では人身売買は禁止されていたが、武帝以降の貧富の差の拡大と共に、法律が有名無実となり、半ば公然と売買されるようになったと考えられるのだ。
 劉秀はここで再度法律を引き締め、法律の厳密な運用を行った。
 その結果、後漢の奴婢は戦争捕虜や犯罪者として官奴婢になったものと、それが民間に下げ渡されたもののみとなったのである。奴婢の多くは功績を立てた家臣への賞与として、あるいは公官庁に働く役人のために支給されるものが多かったようだ。宮崎市定は奴婢は終身懲役刑であるとしているが、まさに正しい理解である。
 後漢王朝では奴婢の売買に関する記録が残っていない。後漢の戸籍には奴婢の値段が書かれるが、これはもちろん購入価格ではなく、資産税のための公定価格が記入されているに過ぎず、人身売買の存在を示すものではない。
 奴婢の人権を宣言した翌年、後漢の著名な学者鄭興が密かに奴婢を買ったことが発覚して処罰されたと記録される。朱暉伝には、南陽太守阮況が郡の役人である朱暉から婢を買おうとして拒絶される話がある。これらも公的に売買が禁止されていたとすれば理解しやすい。
 後漢では人身売買の代わりに庸という、賃金労働が広まっていた。貧しくなると身を売るのではなく、平民のまま他の家の労働をするようになったのである。より穏当な経済体制になっていたことがわかる。
 それでもなお困窮した者は、戸籍を捨てて流民になった。商人、手工業、芸人などで暮らすようになったのである。後漢は、前漢に比べても顕著に流民の記録が多い。ところがそれが赤眉の乱のような反乱に至るものは多くなかった。生産力が大幅に向上していた後漢では、農業をしなくてもある程度食べていくことができたとわかる。後漢の時代、朝廷からは数年の一度のペースで流民に対して戸籍登録と農地の提供を呼びかけているが、いっこうに流民は減る様子がなかった。郷里に帰らず今いる現地で良いとし、土地も用意すると譲歩しても、流民たちは農民に戻ろうとしなかった。彼らは農地を失ったというより積極的に農地を捨てた、農民でない新しい階層の人々とわかる。当時書かれた『潜夫論』にも農業より儲かるから農地を捨てる人が多かったことが書かれている。
 後漢では奴婢の売買は禁止されたし、また売買の必要性もなかったのである。
 
リンカーンの奴隷解放と劉秀の奴婢解放の違い
 劉秀の奴婢解放はしばしばアメリカ大統領リンカーンの奴隷解放と比較される。そして時代の古さから、劉秀の奴婢解放はリンカーンの奴隷解放と違い政治的なものとされる。しかし真相は真逆である。
 リンカーンの奴隷解放は明確な政治的な目的によるものである。リンカーン自身は確かに奴隷制反対の立場であったが、あくまでも国家の統一を優先し、南部が合衆国に戻るなら奴隷解放はしなくてもよいと考え、その意思を何度も南部に伝達していた。
 それが変更されたのは外交の問題である。南北戦争が長引くと、経済も人口も劣勢な南部が善戦していることに対して諸外国から同情が集まり始めていた。イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が介入する気勢を見せていたのである。
 それを封じるための政治戦略が奴隷解放であった。南北戦争を正義の戦争であると定義し、南部を奴隷制を持つ道義的に劣った存在とすることで、イギリス、フランスに南部を援助させないようにしたのである。これが功を奏し、イギリス、フランスともに南部を支持することなく、リンカーンは南北戦争を終結させることに成功したのである。
 それに対して劉秀の場合はどうか。当時の状況を見てみよう。
 新末の農民反乱の猛威に、豪族は自衛のために独立勢力となって、地方を割拠し、天下は分裂する。劉秀の統一に抵抗した政権のほとんどが豪族連合政権であった。特に蜀の公孫述政権、隴西の隗囂ともに典型的な豪族政権であった。
 蜀と隴西は戦乱の少ない新天地であり、中原の大混乱を避けたたくさんの避難民が流れ込んでいた。着の身着のままの難民は資産もなく土地もない。新しい土地で地元の豪族に奴婢として使役される身分に甘んじざるを得ない。公孫述と隗囂の政権では、無数の奴婢が使役されていた。
 ところが劉秀政権は奴婢の解放を早々と宣言し、その待遇改善を実行していた。公孫述、隗囂から見れば、兵員の八割以上が銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍から構成され、奴婢の解放と保護を宣言し、馬武、臧宮、王常といった緑林の将軍まで現役で活躍している劉秀政権は、農民軍政権そのものとしか映らなかったであろう。
 公孫述と隗囂の政権にとって劉秀に降伏するということは、その財産を大量に没収されることを意味していた。そのため公孫述も隗囂も劉秀の六分の一にすら満たない勢力であるのに、徹底抗戦を展開し、全滅するまで戦い続けたのである。劉秀の奴婢解放は統一戦争の妨げになっていたことがわかる。
 しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。リンカーンの奴隷解放とはすべての意味で真逆なのである。
 もし奴婢解放をするのなら、天下統一後にすればこうした抵抗はなかったはずである。ではなぜ劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのか。それは劉秀の政権の兵力のほとんどを銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍が占めているということにある。
 飢饉のために飢えに苦しんだ農民には、二つの選択肢があった。土地を捨てて流浪し農民反乱軍に加わるか、豪族に身売りして奴婢に転落するかである。このとき反乱軍に加わるのは壮年の男子が多く、女子供は豪族に売られることが多かった。劉秀の率いる兵士たちの妻子は、豪族に買い取られて奴婢に転落している者が多かったのだ。
 劉秀は常に自ら先頭に立って戦い、直接に兵士を率いていたから、当然、彼らの悲しみや悲劇を良く知っていた。夜な夜な妻子を想って涙する兵士がいることを。劉秀は自分の兵士たちの、家族に再会したい、家族とともに暮らしたいという願いを叶えるために、奴婢の解放に踏み切ったということなのである。
 劉秀自身、皇帝に即位してそれから洛陽を陥落させてやっと、妻の陰麗華、姉の劉黄、妹の劉伯姫と再会できた。家族との再会の喜びを自分だけが味わうことは許されないと考えたのであろう。そのため劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのである。
 
すべての人に対等に接した劉秀

 劉秀のこの人権政策はいったいどこから来たのか。
 劉秀は法律は万人に平等でなければならないと考えていた。例を挙げよう。
 劉秀の姉劉黄の奴婢が殺人を犯したため、董宣という役人に殺されたことがあった。姉の劉黄は大いに怒り董宣に報復しようとしたのだが、これが聞き入れられなかった。劉黄は皇帝なのにこんなこともできないのかと怒ったが、劉秀はそれを抑えて董宣を賞賛し、皇帝も法に従うことを示したのである。
 劉秀はお忍びを好み、こそっと外出しては夜中に帰ることがあった。そのとき門番である郅惲は、目の前の相手が皇帝であることを確認しても、とっくに門を開けてよい時間を過ぎていることを告げて門を開けず、皇帝を追い払ってしまったのである。劉秀は泣く泣く城外を放浪し、他の門まで回って城内に入った。
 明くる日、劉秀は郅惲をたたえ昇進させ、皇帝すら法に従う存在であることを示したのである。
 ちなみに劉秀の城の抜け出しは相当な頻度であった。史書に記録されるのは銚期、申屠剛、郅惲、何湯らによって発覚した計四回であるが、見つかっただけでこれだけの回数であるから、城から勝手に抜け出すのは全くの日常茶飯事であったことがわかる。劉秀は言われるたびに家臣の意見に従うのであるが、にもかかわらずこれだけ記録が残っているということは、口だけでその場だけ家臣に合わせているだけで、全く従う気持ちがなかったことがわかる。
 将軍では岑彭、来歙は暗殺されているし、陰麗華の母や兄も盗賊に殺されている。実際に危険なのであるから、家臣の心配は当然であろう。
 もちろん劉秀は遊びほうけていたのではない。日本の江戸幕府を開いた徳川家康は鷹狩りが趣味で、鷹狩りは民情視察に最適だと述べている。劉秀の頻繁な外出も民情視察の可能性が高いようである。
 法律を重んじる例をもう一つ。育ての父である叔父の劉良の病気が重くなり、劉秀が見舞った。死の床にあった劉良は最後のお願いをする。劉良の親友李子春の孫が殺人事件を起こし、李子春がそれを隠していたため、李子春は投獄されていた。そこで親友を助けて欲しいと懇願したのだ。ところが劉秀は、
「役人は法律に従っているに過ぎず、法律は曲げることはできない。何か他の願いはないか」
 と答えたのである。法律とは皇帝であっても曲げてはならないものなのである。
 これら法のもとの平等という思想は劉秀自身が持つ人間平等の思想から来ている。劉秀には万人に対して平等に対するエピソードが無数にある。それをここで紹介しよう。

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抜粋終わり

より

上記文抜粋
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平等を目指す戦い・土地調査を始める

 だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。
 真に平等な社会を作るには、経済を正しく把握する必要がある。
 こうして始まったのが度田、建武十五年(西暦39年)の全国の土地人口調査である。劉秀は州や郡に命じて全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査をしたのだ。詔して、州郡の開墾された田畑と戸数と年齢を取り調べ、二千石の官吏で上官におもねるもの、民衆をしいたげているもの、あるいは不公平なものを調べた。

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今回の土地調査を、地方の豪族支配に対する中央政府による重大な挑戦と見なした豪族が、レジスタンス、あるいはサボタージュ作戦を始めたのだ。劉秀政権は挙兵当初より民衆反乱軍を自らの基盤にして、敵対する豪族政権を掃討して天下統一し、その後も一貫して民衆側に立った政治を進めていたが、ここでもまた豪族側の抵抗が始まったのである。
 劉秀は謀略を用いて対応した。使者を郡国に派遣し、群盗が仲間を訴えて五人につき一人を斬ればその罪を免除した。官吏で現地に赴任せずに道中で待機した者、敵から逃げた者、敵を放した者も、みな罪を問わず、これから敵を討って捕らえれば功績とした。現職の牧、太守、県令、亭長で、境界内の盗賊を捕らえなかった者、恐れて城を他人に任せて逃げた者、みなその責任とせず、ただ賊を捕らえた数の多少を重要とし、かくまったもののみを罪とした。
 さらにかつて赤眉戦で鄧禹軍随一の猛将と知られた張宗を派遣すると、その武威を恐れ、お互いを斬り捕まえて降伏するものが数千人となり、青州、徐州は戦慄した。
 こうして賊は次々と解散した。賊の首領を他の郡に遷し、公田を与えて生業につかせた。これより平和が訪れた。牛馬は放牧され邑の門も閉ざされることはなくなったと伝えている。
 この豪族反乱は、豪族が指導者とはいえ実行部隊は一般民衆である。劉秀はそこで豪族をねらい打ちにするため、かくまった者の罪を問い、首領である豪族の力を奪うため、豪族を他の郡へと転居させて民衆との連結を断ち切り、民衆の罪は問わないで済むようにしたのである。
 劉秀得意の敵を分裂させて自滅させる謀略を採用したのである。この謀略であるが、情報戦の達人耿弇の助言があったかもしれない。というのは、耿弇は列侯として朝廷におり、問題が発生するたびに顧問として策略を献じたとされ、しかも乱の発生した青州こそは、耿弇がかつて平定した張歩の領域だからである。
 
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抜粋終わり

 より

上記文抜粋
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山林川沢の税金を廃止した。農業以外の狩猟や山菜とり漁業、林業などの税を廃止し、民衆がより自由に利用できるようにしたのである。もちろん自由と言っても、乱獲、乱伐を防ぐため利用期間などの決まりは定められていた。
 塩と鉄の専売を中止し、民間でも自由に作ってよいとした。この塩と鉄の専売は明帝の時代に一時的に復活したがすぐに廃止されている。塩と鉄を専売して政府の収入とするのは、漢の武帝に始まり清の時代まで続く中国の常識であるが、その数少ない例外の時代が後漢である。
 塩、鉄などの国家専売は、国家に大きな収入をもたらすものの、民衆には不便をもたらした。例えば鉄器を生産するとき市場を経ないため、民衆に必要なものでなく、やたら大きいものが作られてそれしか購入できなかったのである。というのも役人の成績は鉄の消費量で決まったため、大きいものを作って成績を高くしようとしたからである。これは旧ソ連の経済失敗と似ている。旧ソ連では車の生産成績を重量で量ったため、意味もなく重い車が大量生産されたのである。
 商業に従事し、役人との交渉経験の豊富な劉秀は、市場を経ない生産の非効率や役人の特性をよく知っており、自由経済を徹底して推進したのである。
 また困窮者への生活保障を始めた。第一回目は建武六年(西暦30年)で、高齢者や頼れる者のない者、身よりのない者や貧しくて自給できないものに穀物の現物支給を行ったのである。一人あたり五石、もしくは六石である。漢代の一石はおよそ三十一キログラム、一人が一年に消費する穀物は百五十キログラムと言われるので、五石や六石とはおよそ一年分の主食ということになる。
 この食糧保障は「法律の通りにせよ(如律)」とあり、劉秀が法律として定めたものであるとわかる。
 政府財政の問題もありしばらくは行われなかったが、第二回目は建武二十九年(西暦53年)で、ここからこの政策は定期的なものとなり、建武三十年(西暦54年)、建武三十一年(西暦55年)に同様の穀物の現物支給を行っている。そしてそのまま次の明帝、章帝に受け継がれ、後漢王朝の統制が失われるまで定期的に行われるようになった。後漢全体では、西暦30年、53年、54年、55年、60年、69年、74年、75年、75年、78年、79年、84年、91年、96年、100年、105年、114年、121年、122年、126年、129年、132年、137年、147年の合計二十四回行われている。
 貧困な民衆の救済の方策としては、疫病の流行時は官の医師が民間に派遣される制度が作られて実行するようになった。

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抜粋終わり

なんか二千年前に、かなり凄いことが行われていた。

なにも西欧近代文明だけが「人権」って訳では無いし、西欧のもかなり「欺瞞」多いのですは。


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