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「とほ宿」への長い道 その2

(※この一連の投稿は、「空き家を活用した大野の民泊宿 ねこばやし」宿主が旅宿を開業し、「とほネットワーク旅人宿の会」に入会するまでの紆余曲折を書き記したものであって、決して「とほネットワーク」への入会のハードルが高いというわけではありません。ご了承ください。)

大学でワンダーフォーゲル部に入部

(前回の投稿)
入学試験当日に大宴会をした北海道大学に落ち、滑り止めに受けていた西宮市の関西学院大学に入学。
しかし、入居した学生アパートは連日一気飲み大会をするという無茶苦茶なところで(同期が7人いたが、3人は留年、1人はバイク事故で死んだ)、大学は8割が地元の学生で今でいう陽キャの集まり、怪しげなクラブはサークルからだけは声をかけられる。居場所の無さを感じ、北大受験の楽しい夜のことをたびたび思い出し、「北大に受かっていれば今ごろは」と鬱々した日々を送る。
そんな中、たまたま訪れた体育会ワンダーフォーゲル部の説明に誠意を感じた。「山は確かに怖いところ。しかし危険な事態に陥らないよう普段から十分な訓練を積む。しんどさはあるがそれを上回る感動がある」といった趣旨の説明を聞き、特に山登りが好きというわけではなかったのだがその場で入部を決めてしまった。その後30数年山登りを続けることになろうとは・・

令和の今の時代はアウトドアや登山は結構な人気があるのだが、バブル絶頂期の1989年というのは「登山=遭難、キツイ、シゴキ」というイメージで、周りからは変わり者扱いされた。
実際最初に行った比良山系の新人合宿は、出発点であるJR湖西線の北小松駅を降りた時点で土砂降りの雨。「帰ろうか」のひと言を期待していたのだが何事もなかったように山に分け入った。道は川の状態。雨に打たれながらテントを設営し中に入って一息と思ったらミーティングでひたすらダメ出しが出る。まあ訓練だから仕方が無いのだが。
夏合宿は北アルプスへ。「表銀座」と呼ばれる縦走コースから槍・穂高へ・・行くだけだと物足りないということで、その北の餓鬼岳から縦走する。トータル8泊9日。それまで旅行といえば最長でも修学旅行の4泊5日、重い荷物(当時はキスリングという、人間工学を一切考慮していない戦前から使われているザックだった)、そして2畳そこそこのテントに6人が寝るというパーソナルスペースの狭さ。そして行動面や生活面での毎日のダメ出し(冬山を目指すクラブだったので仕方がないのだが)。また、水はカネを出さないと入手できないエリアなので思い切り飲むことができない。まあ、どれも慣れればどうということはないのだが、この時は山を楽しむという余裕は全然無かった。

1989年8月、信州・戸隠高原の山小屋へ

夏合宿後一度福井の実家に帰省し、その後信州・戸隠高原にある関西学院の山小屋で行われる「ワーク合宿」に参加した。「山小屋」といっても登山道の中にあるわけではなく、ロッジのようなものだった。戸隠スキー場の中社ゲレンデから歩いて数分のところにある。
1998年のオリンピックでかなり変貌したのだが、当時の長野駅前は自分の郷里の福井と比べても鄙びた感じがしたものだ。川中島バスに乗り戸隠中社へ。バスもかなり年季が入っていたのだが、「七曲り」と呼ばれる急登を唸りながら登っていく。とんでもない所に行くのではないかと思った。
長野駅から1時間少しして戸隠中社に到着、そこから更に歩いて40分雨の中を歩く。三角屋根の山小屋が見えた。標高1200m、夏なのに全然暑さを感じない。夏合宿で行った北アルプス山中ほどではないにせよ、ずいぶん遠くに来たものだと思った。

戸隠高原の山小屋

悪天のせいもあってか正直印象は良くなかった。玄関を開けると灯油とタールの匂いがする。1960年代前半に建てられたのでこの時点で既に30年以上経っていた。お世辞にもオシャレとは言い難い。パーソナルスペースは個室ではなく、カーテンで仕切られた「蚕部屋」方式。寝る以上の機能は無い。基本的には1階の食堂で過ごす。
山にいる最中もそうだが、食事は夕食がカレー→シチュー→肉じゃが(鶏肉)の繰り返し。朝食は白飯と味噌汁と野沢菜。合宿とは言え味気無いものだ、と最初は思った。
しかし数日で、この何も無い場所にあるボロ山小屋が愛しく感じた。標高1200m、真夏なのに下界の酷暑とは無縁。鳥の鳴き声と白樺。夜は鈍い電灯の光の下紅茶を飲みながら無駄話をする。質素な食事すら美味く感じた。巨大なガス釜でゴハンと炊くので味が全然違う。
オーディオセットがあり、先輩たちが持ち込んだ音楽が流れていた。ギルバート・オサリバン、山下達郎、中島みゆき・・・そして合宿の打ち上げでどんちゃん騒ぎ。これ以上夏休みらしい空間は無いのではないかと思った(今でもそう思う)
宿泊施設というのは、5つ星の超高級ホテルを頂点にしたヒエラルキーが形成されていて、それに応じて宿泊料金も上がる。宿泊体験のすばらしさはカネに比例する、というのが一般的な認識なんだろうが、そういうものが関係無い領域があるということをこの時知った。この山小屋での日々がなかったらその後「とほ宿」を泊まり歩くようなことはなかっただろうし、自分で宿を開業なんてしなかっただろう。

4年間で120泊

その後も信州の山での合宿の帰りに立ち寄ったり、スキー練習のために何度も何度も山小屋を訪れた。学生なので有り余るほど時間はある。大阪発深夜急行「ちくま」に乗り、帰りは夏・冬・春に発売される「青春18きっぷ」を使い鈍行列車を乗り継いで帰る。
一般客も泊まることが出来たのでヘルパーとしても泊まった。といっても掃除と白飯を炊くくらいで大した仕事は無い。お客さんと一緒にスキーしたり無駄話したりした。
卒業するときに宿泊日数を数えたら120泊近くになっていた。何も目的が無くてもいるだけで楽しい。食事も慣れたらシンプルなものこそ旨いという境地になった。何せ巨大なガス窯で炊くので白飯が美味い。
建物もさることながら「戸隠」という土地の神秘性も影響していたと思う。観光地ではあるが今でもコンビニも無く、宿泊施設は民宿ペンションが中心で、夜になると静寂に包まれる。

宿の困難さも知る

このように素敵な宿ではあったが、いろいろ大変な部分もあった。
特に冬が大変だった。夏でも涼しいということは冬は一層寒いということだ。スキー場があるくらいなので降雪量も半端なく、朝積雪があったら雪かきする。夜は水道の元栓を閉めて全ての蛇口から水を出し切る「水抜き」が毎日の日課だった。それでも凍結して水が出ない日がしばしばあった。
木造で解放感のあるベランダがあるのロマン溢れる作りだったが断熱性は著しく低く(一応二重窓ではあったが)、且つ室内は間仕切りが全く無かったので暖房効率は悪かった。山小屋の真ん中に超強力なストーブを据えていたが暖気はみんな上にいってしまう(寝室スペースが2階だったので寝るときは快適だが)、18リットルのポリタンクが毎日空になった。
信州・戸隠は日本屈指のパワースポットと呼ばれ下界と隔絶された神秘的な雰囲気が味わえるが、食材などの購入ができるのは「うすい百貨店」と呼ばれる商店1つのみ。そこに電話して配達してもらう。車で山小屋まで乗り付けることができないので300mほど離れたロッジに置いてもらい取りに行く。
非日常的な旅の体験と利便性は両立し得ない。そのことを身をもって知った。このことが自分で宿を立ち上げるとき、特に宿の物件を選ぶときに大いに役に立つことになろうとは。
(つづく)

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