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【舞台芸術のツボ】はかなくノスタルジックな名戯曲『ガラスの動物園』を観劇!

長年通いつづけることで見えてきた「舞台芸術のツボ」

こんにちは。舞台芸術をこよなく愛する19歳、なかおたいようです。(@butaigeijyutu)。ぼくは、5歳のときからずっと大道芸、マジックや落語など舞台芸術が大好き。

忘れられない思い出を通して、舞台芸術を楽しんだ「ツボ」を少しずつ綴っていこうと思います!

今回は、先日まで博多座で上演されていた『ガラスの動物園』の初日公演を観た感想を中心に書いていきます。

『ガラスの動物園』とは

『ガラスの動物園』は、アメリカの劇作家、テネシー・ウィリアムズの出世作で、アメリカ文学の最高傑作の一つとも言われる。1945年にブロードウェイで上演されて以降、70年以上たった今も世界中で愛され続けている。

今回の博多座公演では、岡田将生×倉科カナ×竪山隼太×麻実れいのキャストで演じられた。

ガラスの動物園(パンフレット)

※パンフレットより

物語の舞台は1930年代のアメリカ、セントルイス。物語の主人公であるトム(岡田将生)は、日々の単調な生活や、口うるさい母アマンダ(麻実れい)に嫌気がさし、閉塞感漂う日常から抜け出そうとしている。

トムの姉で内気な性格のローラ(倉科カナ)は、婚期に遅れ、母が通わせているビジネススクールでもうまくいかず、ガラス細工の動物たちの世界が唯一の居場所。

ある日、トムは母の言いつけで同僚のジム(竪山隼太)をローラに会わせるが、彼はローラが昔、恋心を抱いていた相手だった…

トムが閉塞感を抱えながらも家族と過ごした日々や、それぞれに孤独を抱え、叶わない夢を見続けながらも懸命に生きる家族の姿が、ノスタルジックに描かれている。

トムは作者自身の投影とも言われており、劇の進行役となって観客に自らの思い出を語りかけていく。

『ガラスの動物園』に興味を持った理由

ぼくが『ガラスの動物園』に興味を持ったのは、Mr.Handyさんが以前、この劇を演じていたからだ。

Mr.Handyこと森裕生さんは、ぼくと同じ障害を抱えながら活躍するパフォーマーであり起業家の方。Mr.Handyさんとの交流は以下の記事で綴っているので、こちらも読んでいただけるとうれしいです。

「Mr.Handyさんが演じようと思った『ガラスの動物園』って、どんな劇なんだろう?」

以前からこんな疑問があり興味を持っていたが、今回ようやく観ることができた。

『ガラスの動物園』を観た印象や感想

ガラスの動物園(1954年ブロードウェイ講演)

※パンフレットより(1945年ブロードウェイ公演)

『ガラスの動物園』を観て、強い印象を受けたのが、ローラの足が不自由だということ。歩行を助けるための装具をつけており、そのことにコンプレックスを抱いている。

ぼくも小学校低学年まで足が不自由で、装具を両足につけていたため、自分とローラが重なって見えた。例えばぼくの場合、階段の昇り降りなどでは、どうしても皆より行動が遅かった。

ローラもまさに同じような状況で、小学校の集会では皆から遅れて歩くという。彼女の場合、器具の立てる音を皆に聞かれたくないため、という理由もある。

そうやって、足音を立てないように気を遣っていたとローラはジムに話すが、ジムは「人はそんなこと気にしてないよ」と答えたのが特に印象的だった。

足が不自由なことを気にしていることもあり、ローラは極度に内気な性格で、自分の殻にこもってしまいがち。そんなローラの心のよりどころが、ガラス細工でできた動物たちだ。

「ガラスの動物園」と名付けたその小さな世界の中に、ローラは生きている。

ただ、お気に入りのユニコーンの角が折れ、ローラが「ツノが生えてない方が正解なの」と言ったとき、自分の殻を破ったように思えた。

トムが夕食にジムを招き、ジムと話すうちに、ローラは徐々に打ち解けていく。特にジムと一緒に踊ったシーンは、ローラに羽が生えたかのように見えて、とても幸せそうだった。

しかし、ジムには婚約者がおり、そのことをローラに告げる。ジムに淡い恋心を抱いていたローラの夢が打ち砕かれるという悲しい結末。

ローラはその後、どうやって生きていくのだろうか。どんな形でもいいので、喜びを持って生きてほしい。そう心の底から思った劇だった。


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